子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月16日(火)『平和教育の原点』

1月16日(火)『平和教育の原点』

久しぶりに日本作文の会から原稿の依頼があった。

母から聞いたおじいちゃんの話

墨田区立小梅小6年 女子 N・K
 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、2年前の11月18日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和18年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校2年生。おじいちゃんは、33才。母7才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が4年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和20年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、1ヶ月後、とつぜん戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、1ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、200年も300年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの3分の1くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、3日3晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学2年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。6年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじいちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って3年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、43才で死んだ。母が、高校2年で、母のお姉さんが、21才の時だった。おじいちゃんは、それから67才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
 「ノート2冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。1977年1月作

一晩に10万人亡くなった墨田区へ 

 教師になって7年経ち、豊島区から墨田区へ転勤した。滝廉太郎の『花』の中に出てくる隅田川の言問橋のたもとにある小梅小学校という粋な名前の小学校だった。毎日浅草の駅から歩いて、言問橋を渡って通った。いまは新しく作りかえたが、その頃は古い橋でところどこにくろいシミがあった。それが東京大空襲のときの焼け焦げた人間の死体の油などがしみ込んだあとだと、しばらく経ってから知らされた。
 異動して5年生を担任した。保護者の中には、東京大空襲を体験した人も何人かおられた。祖父母から昔の貴重な体験したことを聞いてくる課題を出すと、様々な題材が出てきた。中には、関東大震災のときに自警団を作り、朝鮮人狩りをしたような作品も出てきた。37人の子どもたちが、父母や祖父母から戦争体験を聞き書きしてくれた。聞き書きを終えて、次のようにまとめてあった。
・戦争中の保護者は、小中学生がほとんどであった。
・祖父母が一家の中心で働いていた時に、東京大空襲に出会っている。
・一人の父親は、志願兵として、東南アジアでかなり大変な生活を送っている。
・被害者意識と加害者意識両面あるが、前者がほとんどであった。
 これらの作品を全員印刷し、みんなで読みあった。
1977年だから、戦後32年経っていたが、まだまだ戦争中の暮らしは、聞き書きできると確信した。今から35年前が、平和教育の原点だった。

平和教育の大切さ

 この戦争体験の聞き書きが、その後の私の作文・綴方教育の柱となって、毎年昔の貴重な体験を父母や祖父母に聞いて、『ひとまとまりの文章』にしてきた。年を重ねるごとに、表現のしかたは、『・・・だそうだ。』と伝聞推定の書き方でなく、『・・だ。』『・・です。』と『歴史的断定表現』の方が効果的である。長い話なので、『小見出し』をつけて、場面を切り取ると、わかりやすく読みやすいなども教えていった。
 その後の年刊児童生徒文詩集に取り上げてくれた
作品を列挙しておく。

82年版『お父さんからきいたせんそうちゅうのはなし」 墨田区立小梅小2年女子 I・J

83年版『先生からとうきょう大空しゅうのはなしをきいたこと」 墨田区立小梅小1年女子 S・R

85年版『原博おじさんの戦争体験』墨田区立小梅小5年男子 N・T

01年版『母の姉は中国に』墨田区立立花小5年男子 E・A

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員船の上で聞いて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、3だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。
85年版『原博おじさんの戦争体験』より 

 この作品は、いくつかの小見出しに分けて書いてくれた作品の部分だ。今読んでも胸に迫ってくる。
 『母の姉は中国に』を書いたE・Aさんは、母の体の中に中国人の祖父の血があることを初めて母に聞かされ、将来は中国語を習い自分の母の姉やいとこと会話ができるようにと、誓ってくれた。時々便りが来るのであるが、五年ほど前に、母は祖母をつれて、戦後初めて自分の本当の姉に会いに行ってきたと手紙が来た。昨年は、中国の北京大学に短期留学して中国語を習っていますと便りが来た。手紙の最後に、「五年生の時に『母の姉は中国に』という作文を書いたおかげで、ぼくの夢を実現できつつあります。これも榎本先生が、ぼくたちに作文を書かせることを大切にしてくれたおかげです。」と結んであった。こんな便りをいただくと、作文教育を大切にして歩んできたことを誇りに思う。完全退職して、今は年金暮らしだ。若い人に、『作文教育この良きもの』を広めるために、新卒以来続けている『豊島作文の会』や「国分一太郎『教育』と『文学』研究会」『綴方理論研究会』を大切にしながら、これからも歩んでいきたい。
      『作文と教育』4月号原稿

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