子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月23日(火)誕生日に思うこと

10月23日(火)誕生日に思うこと

 73年前の昨日、私は生まれた。1945年10月は、日本が戦争に負けて、2ヶ月半経つ日に生まれたのだ。おそらく日本中戦争に負け、至るところに戦争の傷跡が残っていたに違いない。その2年後に弟の宏が生まれている。大変なときに生きてきたのである。それは、我々の家族だけでなく、日本中のどの家族も、この時代に生きてきたのである。私の記憶の中にも3才くらいまでの記憶は、ある1つの出来事以外は、何も残っていない。前にも書いたが、母が教師を辞め、戦後生きるために「闇市」で天ぷら屋の仕事をしていた。その時の記憶が、うっすらと、残っている。それは、与野駅の西口に、たくさんの闇市が並んでいた。その店の前で、私は、三輪車に乗って、一人でよく遊んでいた。店はたいそうもうかったらしい。ものがあまりない頃で、油だってなかなか手に入らなかったであろう。天ぷらの具である野菜だってなかなか手に入らない。それを、祖母の実家である大和田で、農業を営んでいた所から安く手に入れていたらしい。「弟の宏は、どこにいたの?」と、ずいぶん経ってから母に聞いたことがある。お店の隅で寝かせていたそうだ。その店をどのくらい続けていたのか、母が元気なときにきちんと聞いておけば良かったが、今はそのことはわからない。母の妹の政子叔母が、まだ元気だから、今のうちに聞いておこう。
 やがて少しずつ物心が付いてきた頃には、弟の宏とよく遊んだ記憶が残っている。それは、近所の遊び仲間といつも一緒に遊んでいた。与野の家に住んでいた頃の記憶である。与野家は、柿の木、梅の木、栗の木などがあり、それが実るのが楽しみだった。まだ水道はなかった。井戸の生活だった。最初はおふろがなかったので、近くの風呂屋に出かけた。やがて近所の電気屋の鈴木さんのおじいさんが、外に風呂を作ってくれた。水道がなかったので、風呂桶に水を運ぶのが大変だった。風呂釜は、外から木をくべてたくのであった。時々木がなくなる前に継ぎ足さないと、消えてしまうのでその管理が大変だった。
 やがて、浦和の家に引っ越すことになった。私が中学1年生で、宏君が小学校5年生の時だった。そこのくらしは、おふろもタイル張りで、水道もありそれまでよりずっと快適であった。しかし、風呂を暖めるのは、やはりまきを使い、木を時々くべないとやはり火元がなくなってきてしまうので、それなりに大変だった。やがて、その木が、石炭になり、ある程度火が付くと、石炭を入れておけば、長持ちするので、ずいぶん楽になった。
 その燃料がガスに変わったときは、本当に楽になった。一度ガスに火を入れれば、あとは最後まで温かかった。まだ、都市ガスが我が家まで来てなかったので、プロパンガスだった。
 やがて、ガスから電気に変わり、今ではおふろが入れるようになると、「おふろが沸きました。」と合図までしてくれる。今では、1度入れた風呂は、そのまま流すのでなく、次の日に暖めることが出来る。昔は、その水をバケツで汲み取り、洗濯機の中に入れて水を再利用していた。それが今では、風呂にホースを入れて、洗濯しながら、風呂の水を補充しながら洗濯できる。ずいぶん楽になったものだ。
 しかし、この間の台風の被害で、電気が全面ストップして、1週間近く停電だった地域が出た。そうなると、本当に大変なことになる。その電気の下は、石油の火力発電が大きな役割を持つ。今その石油が大変高騰してきている。
 今、サウジアラビアが大変な問題になってきている。こう考えていくと、世の中の動きが色んな所で繋がっているといういことである。
 1度快適な生活を体験すると、元の不便な生活に戻ることが、いかに大変なことになるか、人々は実感を持ってわかっている。大変な時代に入ってきているのである。

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