子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月21日( 木) 平和教育をするきっかけは、何であったのか

12月21日( 木) 平和教育をするきっかけは、何であったのか

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第14回 国分一太郎「教育」と「文学」学習研究会

平和教育をするきっかけは、何であったのか 2023年11月25日(土) 榎 本  豊
 7年間豊島区に勤めて、作文教育をする機会に恵まれた。それは、池袋第3小学校の教師集団の教育実践が輝いていた。その中でも、同学年の教師の一人に、日本作文の会の会員の方がおられ、その方の勧めもあって、作文教育のイロハを教わっていった。やがて、その方と一緒に、他の学校の何人か人が集まり、「国語教科書」の教材研究から出発した。やがてその会が、「作文の会」へと発展していった。その会によく顔を出す人に、百合出版に勤めていた村山淳(村山士郎の兄)さんの奥さんの村山文子さん(池袋第1小)
なども参加していた。あと何人か、名前は覚えていないが、必ず顔を出す人がいた。
 一枚文集の作り方、日記指導、班日記の良さ、赤ペンの入れ方など基本的なことを教えていただいた。
『原爆の子』(長田新作)岩波書店

忘れられない詩を書いた子供達  1970年 10月28日(日) 

原 爆     豊島区立池袋第三小学校  五年 女子
 原爆のけむりは、
 人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
 きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
 原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
 その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
 「本当に、悪かった。」
 と言っているんだ。
 でも、広島の人のくやしさは、
 今でも消えない。
 きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
 一人残された子どもは、
 きっと、戦争をとめるだろう。
 その時の気持ちがわかるなあ。
 きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
     1970年 10月31日発行 一枚文集 「太陽の子23号」より

 教師になって二年目の夏、隣のクラスの担任0教師に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。その大会に参加することによって、日本全国には、個性のある様々な教師がいることを知る。子供達に感動のある本を読み聞かせして、それを詩に表現している教師の実践に大変感動して、自分も実践してみようと試みた。
 その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、心洗われる思いで一気に読み終えた。その中の作品で、当時の子供達の書いた原爆投下後に書かれた作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。彼女は、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けたと言うことを、最初の家庭訪問の時に説明を受けた。そんな彼女であったが、作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて印刷した。
 ガリ版なんて言っても、知っている人はかなり少なくなってしまった。ロウ原紙と言って、その用紙のロウを鉄筆で削って字をカリカリと書いていくものである。それを印刷機にかけて刷っていくのである。その印刷機も、手刷りで一枚一枚刷っていくのである。輪転機と言って、回転式の印刷機も今や姿を消してしまったが、まだそんな機械もなかった頃である。コピー等という機械もなかった。
 子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、みんな喜んでじっくりみんなの文を鑑賞した。それをやると、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめることがある。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせてしまい、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもあるが、私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。その文集の一番最初のページには、担任の私のことを詩に書いてもらった。

 転勤しても、墨田区から月に1回の例会には、顔を出すようにした。異動した学校は、墨田区立小梅小学校だった。浅草の駅から降りて、言問橋や吾妻橋などを渡って、職場に着いた。言問橋の橋のところは、薄汚れていて、黒ずんだ色をしていた。しばらく経ってから聞くと、その橋の上で、東京大空襲の時にたくさんの人々が逃げてきて、その橋の上で、大勢の人々が隅田川へ飛び込んだりして亡くなった場所でもあった。橋の上が黒ずんでいるのは、亡くなった人々が折り重なって出来たものであると、知らされた。
 墨田区に転勤してからも、池袋第三小の豊島作文の会には参加した。そこに中川忠子さんが入ってこられた。彼女が事務局長になり、私と山崎秀夫(仰高小)さんの3人だけで。3年間くらい続いた時期もあった。そこに、東田(長崎小)さんが西多摩に異動してから、寺木さんを連れて、例会に参加するようになった。その後、片桐さん(高南小)が新卒の鈴木由紀さんを連れて参加してくれるようになった。戦争体験者は、保護者の中にもいた。やがて「滝の会」が縁で、作文の会に参加してくれるようになったのが、今や事務局長として活躍してくれている、工藤哲さんである。  

お父さんから聞いたせんそうの話

    墨田区立小梅小学校 2年 池田 純子
 この間、おばあちゃんが来たときに、
「せんそうってとてもこわい、いやなことなんだよ。」
と言うことを聞き、わたしはお父さんに、
「せんそうのことについてお話しして。」
と言って、一週間ぐらい聞いていました。すると、お父さんは、
「せんそう、それはとてもたいへんなことだったんだよ。純子にはまだ少しむずかしいことだから、そのころ子どもだったお父さんが、今でも心にのこっていることを話してあげるよ。」
と言って、色々話してくれました。
 今から三十七年前、だいとうわせんそうというせんそうのおわりごろ、お父さんはみなとく赤さかにすんでいて、近くののぎ小学校に入学しました。そしてまもなくくうしゅうというとてもこわいことが、はげしくなってきました。くうしゅうとは、てきのひこうきが近くにやってきて、ばくだんとかしょういだんという花火のように明るい火の玉が、空からふってくることだそうです。だから、わたしにとっておじいちゃんのいなかに、お父さんは一人ぼっちで、そかいしたそうです。そかいとは、にぎやかな町だと、てきのひこうきにこうげきされやすいので、いなかのように山や川や田んぼが多く、あまり人のいないところにひっこすことです。お父さんは、いなかのおじさんやおばさんにとてもよくめんどうを見てもらったのですが、夜になるといなかになれていないお父さんは、自分のお父さんやお母さん、それにお父さんは四人兄弟の末っ子なので、兄弟に会いたくて、一人でになみだが出てきてなきながらねたそうです。
 お父さんの小学校には、はねだせいきというせんそうのどうぐをつくる会社がひっこしてきていたので、高学年の人はあまりべんきょうしないで、その会社のお手つだいをさせられました。それにいえにあるてつや、くぎなどみんなひろってあつめてその学校にあるその会社にもちよったそうです。それは、ひこうきのげんりょうになるからです。
 またおべんとうばこも同じように、げんりょうになると言われて、ぜんぶのせいとが学校にもってきて、その会社にあげました。だからお父さんたちのおべんとうは、いつもおにぎりで、竹のかわにつつんでもっていきました。お父さんたちも、ときどき名前はわすれたけれども、じょうぶな長い草をつみに学校近くの土手へいかされました。それはへいたいさんのようふくや、さかなをとるあみなどになったそうです。いなかにもだんだんくうしゅうがはげしくなり、じゅぎょうちゅうにサイレンがなり、こうていのはんたいがわに作ってあるほらあなみたいなぼうくうごうという名前のところに、かくれることが多くなってきました。
 ある日のこと「ウー。」と言うサイレンがなって、お父さんのクラスは、だいとく先生という女の先生につれられて、ぼうくうごうにかくれたときのことです。その先生は、
「しずかにしてください。」
と言ってしょくいんしつのほうにかけていきました。いつもいっしょにいてくれるのに、お父さんたちは、
(へんだな。)
と思っていたら、まもなく赤ちゃんをだいてぼうくうごうの方にかけてくるだいとく先生が見えたとたん、
「ゴーッ。」
と言う音がしたと思ったら、
「ダッダッダダダダダダ。」
とこうていの土がはねるのが見えて、だいとく先生はたおれてしまいました。お父さんたちはとてもこわくて、クラスの人たちとだきあって、しばらくじっとしていました。少しすると、こうていの方がガヤガヤして、べつの先生が、
「もう出てきていいぞ。」
と、いったので出ていってみると、だいとく先生は、せなかに大きなあながあき、まわりはちだらけでしんでいました。赤ちゃんはそばで、
「ギャーギャー。」
とないていたそうです。赤ちゃんが学校にきていたのは、だいとく先生の家は神社で、その日おまつりで先生のおばあちゃんもおじいちゃんもいそがしかったので、学校につれてこなければならないのです。お父さんたちはこうていのすみで、長いことないていたそうです。今でも学校のうらにだいとく先生のおはかがあると言っていました。それはいばらぎけんのねもと小学校のできごとです。たすかった赤ちゃんは、その先生の男の子で、今はいなかで高校の先生をやっていると、お父さんは教えてくれました。それからたべものなんかも少なくおいしいものなどたべられない、とてもいやなときだったそうです。
「代用食といってお米のかわりに、おいもやうどんこで、いろいろなものを作ったんだよ。」 それでおいもも、今みたいにおいしいのではなく、ガソリンいもという大きいばかりであまくないビチャビチャしたのもだったと教えてくれました。
 そのせんそうが終わったときは、一年生の夏休みで、お父さんのお父さんやお母さんが、東京の家をやかれ、いなかにきてすぐのことだったそうです。
 まだたくさんのお話をしてやりたいけど、純子がもう少し大きくなったら、もっとくわしく話してあげると、お父さんは言っていました。わたしはお父さんの話をきいて、おや兄弟とはなれなくちゃならなくなったり、びょうきでもないのに死ななければならなくなったり、食べものがなかったり、いつもこわい思いをしなくてはならないせんそうなんていやです。みんななかよくくらせるように、わたしたちががんばらなくてはいけないと思いました。
1982年 三月作
82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収

30年近くたって、読み返す

 今から30年近く前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、65才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた30年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。今回、自分の整理のためにまとめているのだが、この作者に手紙を差し上げる予定だ。

母から聞いたおじいちゃんの話

墨田区立小梅小六年 中島 敬子
 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の11月18日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校2年生。おじいちゃんは、33才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って3年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、21才の時だった。おじいちゃんは、それから67才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
 「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。
1977年1月作

転勤して、5・6年を担任する

 「年配の人から昔の戦争中の出来事を聞いて書いてみよう。」と言うことで、クラスの全員に取り組ませた中からできあがった作品の1つである。この当時は、保護者の方々が、ほとんど戦争前に生まれた人が多かったので、このような貴重な話を掘り起こすことが出来た。中には、父親が兵隊でシンガポールなどに行き、戦争体験された親もいた。シベリア抑留のの作品は、授業参観で読み合ったのを覚えている。その時に、母親がちょうど後ろに見えていて、子どもたちの感想などを聞いているときに、時々横を向いておられたのを思い出す。おそらく、胸に迫る場面の時に、涙をこらえて聞いておられたのだろう。昭和18年7才ということは、今年74才になられておられる。この頃の親は、貴重な話をていねいに子どもに聞かせてくれたものだと、あらためて、この作品を読んで感じた。おじいちゃんが書かれた短歌は、その後どうなったのかは聞いていない。ぜひ、その後のことを、今度は、作者が取り寄せて考えてほしい。私の戦争体験の聞き書きは、この頃がスタートだった気がする。平和教育を退職まで続けてこられたのは、この子らの作品がバネになっている。この作者とは、卒業後高校生頃、、我が家の家族スキーに参加してくれたりした。その後、結婚式に招かれたりして、彼女の小学校時代の「生い立ちの記」の作品を読んだ。お父さんもまだお元気で、帰り際に、自分の胸についたいた生の生花を私の胸ポケットに入れてくださった。お父さんとは、あまりしゃべらなかったが、娘の嫁ぐ日に最大の感謝の気持ちだったのだろう。やがて、彼女は、現在3人のお子様の素敵なお母さんになっておられる。 

ここまで原稿をまとめて

 この原稿を載せてから、1週間くらい経ち、今日の朝 9月7日(木)の午前10時頃、非通知の電話がかかってきた。電話に出てみると、「中島敬子の娘の○○ですが、母の小学校時代の担任だった榎本先生ですか?」という問い合わせから始まった。「はい。」と返事をすると、「実は、母がくも膜下出血で昨日なくなりました。明日家族葬ですが、本日午前中まで遺体は、我が家におります。急で申し訳ないですが、お時間があれば、来ていただけませんか?」という電話だった、昨日透析を受けたので、今日は、1日時間があったので、「すぐ行きます。」といって電話を切った。墨田区の向島に住んでいたので、すぐに家を出て、自宅に向かった。彼女は、布団に横になっていた。その姿を見て、「敬子ちゃん早過ぎるよ。」と思わず声を出してしまった。敬子さん11才、私31才の時の子である。作文は、クラスでナンバーワンだった。あれから46年経ったので、彼女は、57才になっている。早すぎる旅立ちである。ご冥福を心より捧げる! 

小梅小での最後の5・6年の実践

原博おじさんの戦争体験  墨田区立小梅小学校 五年 中山建人

 僕の家の知り合いに、江東区に住む原さんという八十六才のおばあちゃんがいます。博おじさんは、そのおばあちゃんの長男で六十三才、ぼくの大好きなおじさんです。
 ぼくが初めておじさんにあったのは、五才の幼稚園の頃です。原おばあちゃんが病気で二ヶ月くらい入院して、その病院がぼくの言っていた幼稚園のそばでした。ぼくは、毎日帰りに母と一緒に、お見舞いによって、その病院で博おじさんに会いました。おじさんとは、何回もあっていますが、おうちをおたずねしたのは、五回くらいしかありません。おじさんは、踊りや歌が上手で、やさしくて、
「子どもは、うそをつかないから好きだ。」
と言います。いつもぼくに、何か珍しいものがあると、わざわざ、届けてくれたり、ぼくのお礼の手紙には、きちんと返事などを下さいます。
 このおじさんが、戦争に行ってきた人だと言うことを母から、ひょいと聞きました。ちょうど、ぼくは、国語で「お母さんの木」という戦争の話を勉強していました。
「お母さんの木」には、七人の息子を次々に戦争に取られ、そのたびにきりの木を植えてその木を育てながら、帰りを待っていたお母さんのことが書かれています。その息子達は、次々に戦死して、たったひとりだけが帰ってきたとき、お母さんはたおれていた。と言うお話です。ぼくは、戦争のことが聞きたくて、さっそくたくさん質問してみました。おじさんは、一つ一つていねいに文章やテープのお話にして応えてくださいました。

おじさんの入隊

 昭和十六年、十二月八日、日本はハワイ真珠湾を奇しゅうしました。そして日本とアメリカ、イギリスの連合国と太平洋戦争が始まりました。
 おじさんは、満二十才で赤紙を受けずに、戦争に行きました。その頃男子は二十才になると、ちょうへい検査を、区役所で受けました。それで甲種合格になると、全員入隊するのです。甲種合格とは、健康で、身長、体重。視力などが、それぞれ基準以上と言うことで、下に乙種、丙種に分かれていました。おじさんは、甲種合格になり、東部六部隊、あざぶ三連隊へ入隊しました。

最初の訓練

 初め初年兵と言って、学校で言うと一年生の各部屋に十二,三名入ります。軍隊の中はきまりがきびしくて、何かというとすぐほっぺたにげんこつでぶんなぐられました。例えば言葉づかいです。上の人に呼ばれたら、「はい○○○○どの。」の「はい。」が小さいとなぐられます。
 また、できるだけかんけつにはなさないとなぐられます。といれにいくのに、「中山、便所に行ってきます。」帰ったら「行ってきました。」というのです。言い方が悪かったり、声が小さくてもなぐられます。ずらっと、横一列にならんで順にひっぱだかれるので、初めの人は痛くても、最後の人は、それほどでもなくなります。なぐる人がつかれてきてしまうからです。
 朝は、六時に起床ラッパで起きます。一分ぐらいで制服をつけて外に出て、すぐ上半身はだかになり、かんぷまさつをします。食事のあとで休む間もなく訓練があります。それらは、敬礼が一ばん最初です。軍隊帽をかぶり、真っ直ぐのしせいで、斑づきの上等兵の号令で、右手を目の横ななめ、ひじをぴんとはって敬礼です。帽子をかぶっていない屋内では、真っ直ぐのしせいからこしを十五度の角に曲げる礼です。
 ぼくは、こんな敬礼の仕方をなぜ決めたのだろうかと思います。それが出来ないとなぜ、ぶんなぐられなくちゃいけないのでしょうか。
 次に、右向け、左向け、前へ進めと歩くこと、それが終わると、鉄砲の打ち方とかです。動作が一分早くても一秒おそくても、斑づきの上等兵または、下士官にすごい勢いでなぐられるのです。手だけでなく、ベルトやくつも使います。
 「痛い。」とか、声を出すとよけいになぐられるので、みんな歯をくいしばってがんばるのでした。歯をしっかりかんでないと、口の中が切れてしまうと榎本先生が、教えてくださいました。
 軍隊と言うところは、本当にきそくずくめだったんだなあとびっくりします。

中国(天津)での出来事

 おじさんが初めに行った所は、中国の天津でした。そこでは、家の人から送られてくるいもん袋が楽しみでした。その中に入っていた、お菓子などを中国の子どもたちに分けてあげたりして喜ばれたりしました。
 おじさんは、二年目で上等兵、また少したって、兵長に、それから伍長にと進級しました。
 中国は、広くて八路軍や馬賊とか匪賊とか、日本の昔の山賊のような人たちの集団がありました。その人達は、定期便のような輸送車をおそって荷物や色々なものをうばっていました。日本軍のトラックが通りかかったとき、ちょうど八路軍は、いつものようにおそったのです。そのトラックには、日本の兵隊が二十人位乗っていて、おじさんの仲良しの四人の戦友も乗っていました。そして、十六人の人といっしょになくなりました。初年兵でいっしょに入った気の合う。大の仲良しでした。
「生きるのも、死ぬのもいっしょだよ。」
とちかった同期の友だちに死なれたことは、おじさんの一生で一番悲しいことでした。ちょうどおじさんは、大隊本部の衛兵要員として、大隊本部へ連絡に行っていたので、きせきてきに助かったのです。
 戦地では、このようにいつも死ととなり合わせでした。その後、部隊は満州に転進しました。そこでおじさんは、憲兵隊に所属しました。憲兵隊は、軍隊の中の警察という役目です。町を守ったり、スパイやきそくをかんりする仕事で、非戦とういんです。つまり、ちょくせつ戦とうには、加わらない役目です。

フィリピンでの出来事

 軍隊は、いつも司令部の命令で、異動します。おじさんは、まもなく南の方に転ぞくするために、船に乗せられ、着いてみると、フィリピンのマニラでした。そこでも憲兵隊司令部に所ぞくしました。戦いは、だんだんはげしくなり、アメリカ軍の攻げきも強く、日本軍は、だんだん山の中に追われて行くようになりました。
 山の中では、つらいことばかりでした。アメーバ赤りにかかり、マラリアで死にそうになったりしました。アメーバー赤りは、川の水を飲むことによってかかる病気です。水がないので、川の水を使い、川上から川下へと次々に病気が広がって、食べ物も、薬もなくみんな「戦病死」していくのでした。
 おじさんも、この病気にかかって動けず、山の中の一けんの小屋でじっとしていました。おじさんは、持っていた「クレオソート」を飲み、あとは飲まず食わずでじっとねていました。
 マラリアとは、蚊にさされて高い熱が出て息苦しくなり、食べ物がのどを通らなくなって、うわごとを言いながら死んでしまう病気です。おじさんは、それほどひどくなく、熱で苦しみながら、
(ぜったいこんな所では死ねない、母さんの所へ帰るんだ。)
と自分に言い聞かせて、
「母さあん。」
とさけんだ時、元気をとりもどしました。マラリアにもアメーバ赤りにも負けず、よごれたままの軍服とズボン、ただ必死で山の中を歩き通しました。草の根を食べたり、トカゲを食べたりしました。
 山の中で、フィリピンにある日本の会社につとめていた人たちと会いました。この人たちも病気や飢えで次々と死んでいきました。
 ある女の人は、夫と子どもをなくし、一人になって生きていてもしかたないから、そのピストルでうって殺してほしいと言いました。この女の人は、けっきょくなくなってしまったのがわかりました。おじさんは、部下に手伝わせて、ていねいにほうむってあげました。
 死んでいった兵隊に出っくわすと、浅く土をほって、その場にねたまま土をかけてほうむりました。家族に知らせるためには、その人の小指だけ焼いて、その骨を小箱に入れ名前といっしょに保かんしました。
 おじさんは、心の底から戦争のこわさ、おろかさを感じて悲しく思いました。

捕りょ

 昭和二十年八月十五日、日本は、アメリカ、イギリス最後にはソ連まで加わった連合国との戦争に負けたのです。このことをおじさんは山の中の憲兵隊司令部で知りました。戦争が終わっても、すぐには日本に帰れず、きょうせいてきにアメリカ軍の捕りょになって、収容所に入れられ働かされました。毎日、作業をやらされて、アメリカ兵にこん棒でなぐられたこともありました。ある日、
「何かやろうよ。」
と言うことになり、おじさんは歌に自信があったので、申し込み用紙に記入して、演芸部に入りました。そして「青春日記」というげきをやりました。
 部隊を作り、着物はメリケン粉のふくろで作り、色は花でそめたり、かつらをあさなわを一本ずつそろえてほぐして作りました。げきを演じると、みんな涙を流してじいっと見つめていました。おじさんは、このげきの歌の作曲をして、主役の妹役をし、歌ったりしました。作詞をした人は、西野さんと言って、荒川区の人でした。この人は、帰国後十二年くらいあめ屋をしていました。ガンという恐ろしい病気でなくなりました。その後、おじさんは、西野さんの三人の娘さんの結婚式に招かれました。その式で三回とも、
「これがお父さんの作詞した歌ですよ。」
と言って歌いました。するといつもおくさんと三人の子どもさんも、涙をポロポロこぼして泣いていました。

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員船の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。

焼けあとの東京

 おじさんは、十三才の時から、お父さんに仕事を教えられ、手に職をつけていました。ガラスのお皿やコップに、もようをきざむカットガラスという仕事です。それが始められるというので、一年ぐらいで一人で東京に出てきました。墨田向島一丁目の家は燃えずに焼け残っていました。その家には、お母さんといっしょには、そかいしなかったお父さんと妹二人が、ずっと住んでいました。おじさんは、お父さんと妹二人と四人でくらし始めたのです。
 東京は焼けて食べ物もなく、ひどい状態でした。焼けあとを掘って鉄くずや、ガラスくずをあつめるもの、食べ残しの食物を拾い集めるもの、子どもたちは、かっぱらいやスリをやったりしていました。
 戦争で親をなくした子どもたちが、上野の山などにわんさといました。めんどうを見てくれる人はいないので、グループを組んで食べるためには、なんでもしたようです。昼は、くつみがき、夜は駅の地下道で寝て、服はよごれ、おふろへ入らないので、かみのけもボサボサ、しらみ(虫)が住みついてしまうのです。
 こんな状態は、ぼくにはそうぞう出きません。住む家もなくて、子どもだけで、毎日、本当にくらせたのだろうかと不思議です。こころぼそくて泣いたり、おなかがすいて泣いたり、けんかもあったと思います。昔の子は、生きていく力がすごいと思いました。
 その後、この子たちは戦災孤児として、いろいろなし設で、りっぱに育てられたのです。

おじさんのうけた教育

 おじさんの小さいころは、
「男の子は、かならず戦争へ行って兵隊になるのだから。」
と、強く正しくと教えられました。また、体をきたえる運動や剣道、柔道などもきびしくしごかれました。
「戦争になったら、喜びいさんで行ける人になれ。」
と、そればかり心がまえを教えられたのです。
 科目は、「算術」「読み方」「修身」「図画」「唱歌」「操行」とかです。男子と女子はいっしょに並びません。男子はいつも女子より上と教えられ、学校でも家でも、男子はとくべつに大事なあつかいを受けました。
 兵隊に行くことになった時、おじさんは、人がいる前ではうれしそうにして、一歩外へ出ると、とたんにがっくりしました。お母さんが、心から喜ぶはずがないと思ったからです。
 今は、あんなところ(軍隊)へ行くのはいやです。これから若い人にはぜったいに戦争には参加してほしくありません。このことを忘れずに、とおじさんは強く言っておりました。      

ぼくの思うこと

「赤紙」を見せてもらいました。おじさんは、赤紙が来て戦争に行ったのではありません。手元に持っていたものです。ぼくには、むずかしくて全部は読めませんが、「臨じ召集令状」と書いてありました。次の所には、名前を書く所、とう着地、召集部隊。うらには、びっしりと注意や心得、しょち、刑罰などが書いてあります。これをもらうと、どんな人も軍隊に入らなければなりません。乙種合格の人にも、年の多い人にも、戦争がひどくなると、ほとんどの家々に赤紙が来ました。「学徒出陣」と言って学生さんも、みんな戦争に行きました。
「兵隊に行くと言うことは、死ぬことだ。」
とみんなかくごしていたそうです。そうすると、死ぬことをしょう知して、みんな、りっぱに出かけたと言うことですから、ここのところは、こわいと思います。
 また、そのように小さいときから訓練されたと言うのも、ひどいことだと思います。
 おじさんのように戦地に行って、生きて帰ってきた人は、本当に少ないのです。フィリピンから帰った人は、特に少ないそうです。
 ある人は、ジャングルの中で戦病死、またばくげきでひとかたまりに吹き飛んで、また船が沈んで海の底で、そして、飛行機といっしょにつっこんだりして、みんななくなりました。
「お国のため」とか「天皇へい下バンザイ」と言って死ぬ人もいましたが、ほとんどの人は「お母さん。」と言って死んでいったのです。ぼくはやっぱりもうだめかなと思っても、最後まで生命をそまつにしないで、れいせいに行動する人になりたいです。
 実際に戦地に行ってきたおじさんから聞いたこの戦争の話は、とつげきとか、鉄砲や飛行機で戦うような場面ではありませんでした。でも、じゅう分、戦争のこわさ、むなしさ、悲しさを伝えてくれました。ぼくは、戦争はひどいな、やってはいけないな、悲しいことだなあと、心の底から思います。
 なぜ戦争が起こるのか。どうして国と国が戦う所まで行ってしまうのか、今のぼくにはわかりません。
 ぼくは、これからいろいろ勉強して、何が正しいかを知ったり、日本の国の憲法なども、しっかり学んでいきたいと思います。平和の大事さ、ありがたさをわすれないようにしたいと思います。
 おじさんは、戦争体験を今までは、他の人に話したがらなかったそうです。でも、ぼくに、よくわかるように、正直に話してくださいました。生きるために、フィリピンの人の水牛をつかまえて、殺して食べたり、そのことでフィリピンの人々に、おじさんが捕虜になって、車で収容される時、
「カラパオ、パタイ(水牛を殺した)」
と言って、石を雨のように投げられたりしました。
 また、捕りょで作業の時、アメリカ軍のいもん袋から、お菓子をぬいて食べました。
「こんなことは、しちゃ行けないんだよ。本当はね。」
と言いながら話してくださいました。
(ずいぶん、苦労したんだなあ。)
とぼくは、つくづく思いました。
(でも、生きて帰ってきて、よかったね。おじさん。)
と何度も心の中で言いました。
1985年 3月作 1985年版 日本児童生徒文詩集(百合出版)所収
 今から38年前にできあがった作品である。当時原博さんにもお会いし、86才になられたお母さんにもお会いできた。お母さんはクリスチャンで、この作文を読み感動し、「親子の対面のことをまざまざと思い出しました。」と語ってくれた。うれしくて、クリスチャン仲間の所にこの作品を持っていき、昔の話を思い出しながら「戦争は、二度としてはいけない。」と訴えたと話してくれた。

戦後55年経ち、戦争体験は出てこないと思ったが実践してみた。

母の姉は中国に 墨田区立立花小  5年  遠藤 昭城

中国での生活

 僕の母には、中国に姉がいます。僕にとっては、おばさんにあたります。名前は、陳景華(チェンケイカ)と言います。僕は、
(なんで中国に姉がいるんだろう。)
と不思議に思いました。母は、
「おばあちゃんが、21才の時、昭和19年、その当時、おばあちゃんは同盟通信社に勤めて いたのね。上司が中国(満州)の支社にいくことになったので、おばあちゃんも一緒に行 ったの。」
と言いました。母が祖母に、
(よく親は許したねえ。)
と聞いたら、
(当時、日本は戦争による食料不足、満州は食料豊富だったので行った方がいいと親は思 った。それに満州は、日本領土ということになっていたので、外国という感覚じゃなく、東 京から北海道に行く位の感覚だった。)
と話してくれたそうです。祖母は新潟から船に乗り、3日ほどで朝鮮半島に着き、汽車で中国に入りました。満州は、お米やお肉、お魚など何でもあったので、豊かな生活でした。中国語は話せなかったけど、日本人が多かったので、困らなかったらしいです。そのうち、太平洋戦争がはげしくなって、1945年(昭和20年)8月15日、日本軍はアメリカ・イギリスを中心とする連合国軍に敗れました。そのため、日本人は、日本に引きあげなくてはいけませんでした。ところが、1945(昭和20)年3月10日の東京大空しゅうで台東区にあった家はすべて焼けてしまい、親兄弟と連絡が取れなくなってしまいました。帰れなく困っていた祖母を助けてくれたのは、中国で知り合った友人達でした。その中の一人が陳康初(チェンガンツ)という軍人でした。その人は、中国の国民党軍の人で、台湾にずっと行っていて、中国に帰って来た人でした。祖母は、陳康初と言う人と結婚することになりました。その頃、日本の家族と連絡が取れ、日本の両親も結婚を許可してくれました。日本に帰国しても、満足に食べるものがない時代だったので、中国にいた方がいいと思ったらしいです。戦争が終わった後、日本人はソ連軍の捕りょになったり、引きあげの途中で財産をうばわれたり、病気になって日本に帰れなくなった人も大勢います。その中で祖母が無事でいられたのは、
「陳康初さんが軍人であり、裕福な生活ができる人だったから。」
と母は言いました。1950(昭和25)年7月に陳景華さんが生まれ、1953(昭和28)年1月ぼくの母が生まれました。その当時は、中国の紹興(しょうこう)に住んでいたそうです。ぼくは、母の話がよく理解出来ませんでした。戦争の後、中国では内戦が起こり、共産軍と国民党軍が争いました。
 紹興は、田舎(いなか)で内戦の影きょうはあまりありませんでした。陳康初さんも軍人をやめかんぶつ屋の商売をやっていたため、割合おだやかな生活でした。しかし、国民党軍が負け。国民党軍の総統だった蒋介石が台湾に行ってしまうと、中国の政治が共産主義となって、外国人は全員国外へ出なくてはならなくなりました。祖母の子どもは、父親が中国人ということで、2人ともおいて日本にいくように命令されました。祖母は生まれたばかりのぼくの母を、ぜったい置いて行かれないと思い、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」
と強く言いました。ぼくは、
(この時代は、反抗すると、殺されたりなぐられたりするのに、おばあちゃんってすごいなあ。)
と思いました。とうとう願いを聞いてもらって、生後2カ月の僕の母を一緒に連れて帰ることが許されました。しかし、2才半離れた姉は、父親のところでくらすことになりました。ぼくは、母に、
「おばあちゃん、そん時お姉さんに何か言ったの。」
と聞くと、母は、
「お母さんが思うには、中国てあんまり遠くないし、実のお父さんのもとに置いて行くのだか ら、生きていればいつか会えるって、絶望的にはならなかったと思う。別れるときは、な んて言ったかわからないけど。」
と言いました。
 1953(昭和28)年3月、祖母は母をだいて、日本に帰ることになりました。母は帰って来られるからいいけど、中国に残される景華さんがかわいそうに思いました。

帰  国

 帰国するとき、陳康初さんは、紹興駅まで一緒について来ました。祖母は狼(おおかみ)の毛皮のコートを着て、あかちゃんのおしめを持って、身の回りの物など大きな荷物を持ち、母をだいていました。紹興駅から上海(シャンハイ)まで行き、上海港から船で日本へ帰ることになっていました。祖母は、陳康初さんから、紫色の宝石のついた金の指輪と、水晶の印かんをもらいました。ぼくは、
「その時、おばあちゃん、どういうこと話した。」
と聞くと、
「『1つだけ、3年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きていきましょう。 景華のことは、よろしくお願いします。』と言ったそうよ。もっとくわしく聞きたいけど、お  ばあちゃんは、『昔のことは忘れた。』と言うばかりで、あまり話したくないと思うよ。」
と、母は言いました。ぼくは、
(ぼくもおばあちゃんだったら、そういうことはあまり話したくないなあ。)
と深く思いました。上海から船でたって3日間で京都舞鶴(まいづる)港につきました。日本が見えてきたとき、緑一色の日本列島を見て、
(ああ。日本の国は、なんてきれいなんだろう。)
と、祖母は思いました。舞鶴港には、祖母の父親と弟が迎えに来てくれました。それから、汽車に乗り、9年ぶりに東京に帰りました。

実家での生活

 祖母の父親は、戦前鉄工所をやっていた技術を生かして、戦後荒川区南千住で風呂釜を作っていました。大きな旅館などが得意先でした。銅でできた風呂釜は、数年でこわれるため、けっこうもうかっていました。祖母は、母が保育園に入る年まで実家にいました。母は、
「実家がかなり経済力があったから助かった。おじいちゃん(ぼくにとってひいおじいちゃん) おばあちゃんにすごくかわいがってもらったよ。だから、お父さんとか別にいなくても、寂 しくなかったんだよ。」
と、言いました。母と祖母が帰ってきてから、すぐ国交断絶が行われました。もう中国に行けないし、手紙も出せません。ぼくは、
(おばあちゃん悲しんだかなあー。)
と、思いました。もう景華さんとは会えなくなってしまったのです。その後、祖母は古着屋の店をやりながら母を育てました。母は、
「お父さんのことを聞くと、『あんたが大人になったら話してあげる』と言って、一言も話して くれなかった。そのうち父親のことは、聞いてはいけないことだと思うようになった。」
と、言いました。
昭和40年(1965年)祖母は再婚しました。その人が、今団地に住んでいる僕のおじいちゃんです。

中国からの手紙

 昭和61年(1986年)11月18日、突然、荒川区南千住の祖父母の家に、母宛の手紙が届きました。中国の景華さんからの手紙でした。前の年、僕の兄が4才で肺炎で亡くなった時、母は初めて、中国に姉がいること、父親が中国人だったことを祖母から教えてもらったそうです。母は、
「子どもを亡くして悲しかったけれど、この地球上に、血のつながった姉がいることは、とて もうれしかった。」
と、言っていました。突然届いた手紙だったので、父の会社の人に翻訳(ほんやく)してもらいました。母は、手紙を開くとき、すごくドキドキしたそうです。母は、
(きれいな字だなあ。)
と、思ったそうです。内容は、「中国のお父さんが9年前になくなりました。」とか、「お父さんの遺品(いひん)から住所が分かった。」とか、「母親が日本人ということで、いじめられ、恨(うら)んだこともあったが、今は、結婚して幸せに暮らしている。」ことなどが書いてあったそうです。その時、祖母にも景華さんから手紙が来ていました。母が言うには、
「ほとんど、同じことが書いてあったらしいよ。」
と、言いました。ぼくは、
(おばあちゃんは、手紙を読んでどう思ったのかなあ。)
と思いました。母と祖母は、景華さんに手紙を送ったそうです。手紙と一緒にいろいろなおかし、例えば「煎餅(せんべい)・チョコレート・クッキー」などなど送りました。後から腕時計3人分(景華さん、ご主人、子ども)を送りました。母と祖母は、中国語が書けなかったので、日本語で書きました。年をとった中国の人は、日本語が分かる人が多いので、必ず誰か読んでくれると、思ったそうです。ぼくは、
(榎本先生も、年をとった中国の人は日本語を読める人が多いとか、教えてくれたなあ。)
と、思い出しました。それから、数ヶ月して、景華さんから返事がきました。
「うで時計をお母さんだと思って大事にします。」
と、手紙には書いてありました。それから文通が始まりました。文通が始まった頃、中国は国内も自由に旅行出来ませんでした。今はだいぶ変わり、一部では海外に自由に行けるようになりました。
 それは日中平和条約が1972年に結ばれ、日本と中国が仲良くなり、国交を回復したことが大きな理由です。
ぜったい中国に行こう
最近母から20センチメートル四方の古い布に薄くなってよく読めない、茶色の文字で
「路進神不阻、心連別何妨、○○存証,康哥1953.3」と書いてありました。,
『何、これ。』
と、母に聞くと、
「中国のお父さんが別れるとき、おばあちゃんにくれたものよ。この字はね、中国のお父さ んの血で書かれているのよ。」
と、母は小さな声で言いました。ぼくは、
「えっ。」
と、すごくびっくりしました。母は、布をふうとうに入れ、しょっきだなの引き出しにしまいました。ぼくは、
(こわかった。)
と、思いました。ぼくは、
「何で血で書いたの。」
と、母に言いました。母は、
「それはたぶんおとうさんの強い愛情を表しているの。」
と、言いました。ぼくは、
(何で血で書いたんだろう。)
と、不思議に思いました。母は、
「ぼくの体にも中国人の血が4分の1流れている。」
と言っています。ぼくは、
(戦争がなければ景華さんと別れなくてすんだのに、前から思っていたけれど、戦争は恐ろしい。)
と、強く思いました。でも、母は、
「戦争がなかったら、中国に住んでいたと思うよ。」
と、言っています。そうすると母は父とは出会わないことになります。ぼく達3人の兄弟は、この世に生まれなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。ぼくは、
(戦争のおかげで母や父やいろんな人に会えたんだなあ。)
と、正直ちょっとふくざつな気持ちでした。でも、戦争はよくないものです。おそろしいものです。
母も言っているけど、
「いつか絶対中国に行こうね。」
ぼくも、
(中国に行ったら景華さんにも会ってみたいし、いとこにも会ってみたいなあ。)
と、思ったこともあります。
(お母さん、家族で絶対中国に行こうね。)
と、僕は思っています。
2001年版 日本児童生徒文詩集(百合出版)所収

遠藤君のお母さんからも添え書きの文章 昭城昭城には、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日かかかりました。 [#cf95f1d7]

 ご苦労様!
 私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。
 一部読めない字もありますが、
   路進神不阻
   心連別何妨
   ○○存証
   康哥1953.3 と書かれています。
 この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の深い愛情と励まし、同時に無念さを思い胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはありません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。
 ※ 康哥は書家としての号で、陳康初さんのことです。 母より

 こんなドラマチックな話、読んでいるだけで胸にこみ上げる場面がたくさんありました。いろんな事情があるんでしょうが、おばあちゃんが元気なうちに陳景華さんを日本にお呼びして、親子3人が対面できるといいのになあと勝手に思ってしまいます。
 まだまだ戦後は終わってないなあと、みんなが書いてくれた文を読みながら感じました。中国残留孤児のみなさんが日本にやってくるたんびに、昭城君のおばあちゃんやお母さんは、テレビに向かってもしかしたら陳景華さんではないかと思いながら、見ているのではないかと、勝手に想像しています。語らずにいた秘密の話を、お母さんは思いきり語ってくれました。それをこんなに○○君は、心をこめて書いてくれました。中国の陳景華さんに、この作文の願いが届くことを願っています。ぼくも心より応援しています。

「母の姉は中国に」遠藤君の作文の感想

11月の指導題目 「友達の書いた戦争体験の聞き書き文を、読んで、感想を書いてみよう。」

遠藤君へ 5年 面 壮彦

 遠藤君に中国人の血が流れているとは、知りませんでした。戦争は、とても恐ろしいし、ざんこくです。戦争で何人の人が死んだのか、それはわかりません。戦争なんてやってはいけなかったのです。しかし、戦争がなければ、遠藤君はこの世にそんざいしません。遠藤君のおばあちゃんは、日本に帰って来る時、おじいちゃんの手紙をもって来たそうです。文字はなんと、血で書かれていたそうです。なぜ血で書いたのかは、大切な遠藤君のお母さんに深い愛情を表したかったんだと思います。今、日本人はだいたい英語を習っています。しかし、遠藤君はぜったい中国語を習うと思います。いっこくも早く、中国語を覚えてもらいたいです。それに、何十年も離れ離れになっているチェンケイカ(陳景華)さんと、一秒でも早く再会してほしいと思います。おじいちゃんからもらった布の手紙の中国語の文字を、日本語に直せばぜったいに、強い愛情が感じられると思います。《略》

遠藤君のおばあちゃんはすごい 5年 羽田 恭平

 中国から日本に行くように命令された時に、遠藤君のおばあちゃんは、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」と、良く言えたと思います。言うのは遠藤君のお母さんをそれほど育てたいという愛情だけでなく、かくごも必要です。《途中略》ぼくは、遠藤君のおばあちゃんの決意は、すごいと思いました。しかし、チェンケイカさんを引き取れなかったことは、多分一生くいに残ることです。帰国するときに、遠藤君のおばあちゃんが、「三年間たって中国に帰れなっかったら、それぞれ別々の人生を生きて行きましょう。景華のことは、よろしくお願いします。」と言った時は、きっとふくざつな気持ちだったと思います。遠藤君のおじいちゃんの愛情。血で書かれた手紙の部分を読むだけで、深い愛情を感じます。ぼくは、(はじめて読んだ時は、こわかったけど、何回も読んでいると、それが家族に対する思いやりなんだなあ。)と考えが変わって来ました。遠藤君のお母さんから見ればお父さんの大切な手紙です。遠藤君のおじいちゃんからすれば、遠藤君のお母さんをあずかりたかったかもしれない。しかし、遠藤君のおじいちゃんは、おなくなりになりました。
遠藤君の気持ち
 今まで、本当のおじいちゃんだと思った人が、血がつながっていないと聞かされたら、びっくりする。それに、遠藤君の体に四分の一の血が流れていると聞かされたら、ぼくだったら、どうしたら良いのかがわからない。遠藤君は、あまりこの文を見せたくなかったと思う。

遠藤君のお母さんの気持ち

 とつぜん手紙が届き、お姉さんがいると知った時、おどろきとうれしさがあったと思う。ちょうど遠藤君のお母さんのさいしょの子どもが、肺炎(はいえん)でなくなった時だから、色々大変だったと思う。その時が、1986年だったそうです。M君のお母さんから見れば、本当の父がなくなったり、子どもがなくなったり、姉がとつぜんいるとわかったりして、びっくりしたと思う。本当のお父さんとお姉さんが中国にいたことなんかだれにも知られたくない。

ぼくの気持ち

 遠藤君の家族で、中国へ行ってほしい。親や姉妹に会えないなんて、どんな人だって会いたいと思う。しかし、中国に行くには、お金もかかる。それに、遠藤君のおばあちゃんは、「3年たったら別々の人生を歩む。」と言って、チェンケイカ(陳景華)さんは、日本に連れて行けなかった事もある。少し気まずいけど、遠藤君の友達として、中国に行って、いとこやチェンケイカさんとそのご主人に会ってほしい。

遠藤の作文を読んで  5年 田中 日香里

 遠藤君の「母の姉は中国に」という文を読んで、私は色んなことにびっくりした。まず、遠藤君の体の中にも、少し中国の血が流れていることと、実のおじいちゃんが、中国人だったってことだ。私は、(こんな身近な所に、戦争でこんな体験をしたおじいちゃん、おばあちゃんがいるんだなあ。一年生から今まで、ずっと同じクラスだった人に、こんなすごい人がいるなんて。)と思った。遠藤君のおばあちゃんは、食べ物に困ったりしなかったらしいけど、子どもを一人陳景華さんを中国に置いて行ってしまった。(もし、昭ちゃんのお母さんと陳景華二人とも日本に連れて来られたらどうなっていたんだろう。昭ちゃんのお母さんを中国に置いて行ってしまったら、昭ちゃんは今この立花小学校のこのクラスにいなくなっちゃうんだ。昭ちゃんは、戦争があって今このクラスにいるんだなあ。)といろいろ考えた。(昭ちゃんは、この作文を書くのにどれだけ苦労したのだろう。書くのも大変だったけど、このおばあちゃん達の体験したことや、実のおじいちゃんが中国人だったこと。中国に自分のお母さんのお姉さんがいることを聞いた時、多分大変だったろうな。)
と思った。私の祖母は、東京都の八丈島で戦争を体験した。沖縄みたいに外国になってしまいそうだったらしい。もし外国の島になっていたら、どうなっていたんだろう。私のおばあちゃんやおじいちゃん達は、だれかをなくしたり、つらいことを経験したりしているんだ。榎本先生から聞いたけど、この戦争体験を誰にも話さずになくなっていく人もいる。あまりにもざんこくな事をしてしまった人がそうなんだろうな。でも、この戦争の事を子孫に話していった方がいいな。そうしないと戦争というおそろしい事を人は忘れてしまう。語り続けていけば、戦争の恐ろしさをわかっている人達がたくさんいれば、とめられるかもしれない。遠藤君の作文を読んで、色んな事にびっくりしたり、知ったり、おどろいたりしました。この作文を読めてとても良かったです。

3人の感想に学ぶ

 こんなドラマチックな人間としての生き方に、胸の中に熱いものが込み上げて来るものがあった。中国残留孤児が日本にやって来るたびに、どんな思いでその映像をご覧になっていたのだろうか。 M君のお母さんは、三人の子どものうち、一人くらいは中国語を習ってほしいと話された。ご自分も中国語を習い初めているという事である。

「母の姉は中国に」を書いた遠藤昭城君は、

 大学生になり、アメリカの大学に留学した。その小学校時代の友達の勧めを思い出したのか、中国の北京大学に留学し、そこで中国語を覚えて、おばあちゃんと母親を中国に来させて、母親の姉の景華さんと対面させている。おばあちゃんにとっては、戦後すぐに日本に帰ってきて、別の男性と結婚し、別の人生を歩んでいた。日中国交が回復し、その何年か後に中国に残してきた娘からの手紙を読み、初めて当時赤ちゃんだった遠藤君のお母さんにも、すべてを話した。そこで、今回のような形になった。そのきっかけを作ったのは、遠藤君のお母さんと遠藤君の努力によって完成した綴り方の結果である。 作文教育この良きものである!
 教科書から、「作文」という文字が消えて20年以上経つ。私が教師になった頃は、誰しも子供に、日記帳を持たせて、日記指導をしている教師が多かった。それは、子供の生活を見るのがよくわかり、赤ペンで子供との交流が出来た。そこから、子どもと教師のつながりが深まった。その日記帳を読む保護者は、そこに自分の子供の生活を知ったり、教師の赤ペンを読むことによって、担任と間接的な交流が出来た。
 今や、現場は忙しく、子供とゆっくり遊んだり、会話する姿が見られなくなった。教室の中には、じっとしていられない子どもが、何人かいる。昔はいなかった「モンスター保護者」がいて、その対応で、毎日のように苦しんでいる教師もいる。夏休みの自由な民間の研究には、参加しずらくなった。官製の研究会には、行きたくなくても強制的に行かせられている教師もいる。心の病を持っている教師が、病院は通ったり、休暇を取ったりしていると聞く。こんな学校現場からは、魅力的な教育実践は育たない。

きっかけを作ってくださった本間さんお手紙を

「母の姉は中国に」の作品を書かせるきっかけを作ってくださったのは、当時日本作文の会の編集長をされていた本間繁輝さんでした。今は、亡くなられて奥様が 研究会にも参加してくださいました。今回は、参加出来なかったのでお手紙を差し上げました。

本間 英美子様

 今回東京で行うのは、3年ぶりの研究会でした。私も、報告者に加えていただき、大変良い思い出になりました。特に最後の作品「母の姉は中国に」の作品は、本間さんからの依頼がきっかけでした。それは「平和学習全国大会」があるので、聞き書きの戦争に関するものを報告してくれないかと頼まれました。
 戦後55年も経ち、かなり厳しいお願いでしたが、その年も子供たちに戦争体験の聞き書きをしてみました、
 子供たちは、様々な聞き書きに挑戦し、それなりの作品ができあがりました。遠藤君も、おじいさんから聞いた戦争体験の話を、一生懸命書いてくれました。そのおじいさんの聞き書きの最後の所に、「君のお母さんのお姉さんは、中国にいます。」という文が、最後の1行に書いてあるけど、どういうことなのかお母さんに聞いてきてほしいとと頼みました。
 お母さんももずっと知らない事実ということがわかりました。それは、お母さんも自分の生い立ちは聞いてはいけないことだと、封印していたということでした。それが、自分が結婚して、何年か経ち中国から手紙が来たとき、中国語で書かれた文章でした。中国語のわかる人に訳してもらうと、自分の姉から来た手紙であるとわかり、同じ文章がおばあちゃんのところにもきていて、そこでおかあさんは、初めて自分の姉が中国にいることを、おばあちゃんから聞いたのでした。そのことを、じぶんのこどもたちにもしゃべらずにいたのでした。今回、聞き書きの作文ということで、本当のことを初めて語ってくれたのでした。
 作品ができあがってから、脳梗塞で倒れられた本間さんにファックスで送りました。病の床で読んでくれたのです。その作品を中心に全国大会に報告することが出来ました。その後、本間さんも、少しずつ元気を回復し、この作品がきっかけで、中国の旅に行こうとなり、本間さんを団長にして、私と田中さんが副団長で、楽しい旅行が出来ました。遠藤君は、この作文をクラスのみんなで鑑賞したときに、将来中国語を覚えて、お母さんとおばあちゃんを中国に暮らしているお母さんのお姉さんと対面させるべきだというともだちの 激励を覚えていて、10年後に実現しました。そういうとを最後に報告を終えました。みなさん感動して聞いてくださいました。
 本間先生には、今でも感謝しております。私にとっては、もっとも充実した作文教育の実践報告となりました。
2023年 12月吉日 榎本 豊

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