子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月2日(日)教え子の墓参り

2月2日(日)教え子の墓参り

 昨日、箱崎さんと同学年の3人の教え子さんと、墓参りに行ってきた。急な日程であったためにクラス会の幹事を務めていたメンバーと一緒の参加であった。日比谷線の「三ノ輪」駅を出たところで落ち合い、すぐ近くのお寺に向かった。前の日に、弔辞のような文章を持って参加した。以下の文章は、1月4日の日記の文章と重なり合うところもあるが、あらためて、書き加えたものである。

弔辞

 今から34年前に、あなたと初めて巡り会えました。墨田区立小梅小学校の1年生に入学してきたあなたと、私との出会いでした。私は、小梅小学校に転勤して、5年目の年でした。私は、35才で、恵理さんは6才になったばかりのピカピカに輝いていた子どもさんたちの一人でした。その頃も、私は、子どもたちに文章を書いてもらい、それをみんなで読み合う作文教育を大切にしていました。恵理ちゃんたちが入学して2ヶ月経った頃、次のように日記を書いてきてくれました。まだ、文字の勉強が完全に終わってないのに、書いてある内容は、生き生きとして表現されていました。私は、その文章を、「一枚文集」の「こうめの子4号」に他の子ども何人かと一緒に載せた。それをみんなで読み合いました。その文章を読んでいる、あなたの姿を、今思い出しています。

恵理さんの書いた作文

「せんせい、あのね。きのうね、おかあさんとすみだこうえんえいったの。たのしかったよ。おにいちゃんもいったのよ、うれしかったの。またこんどいくの、たのしみよ。あさっていくのよ。えりうれしいの。すみだこうえんいったら、つりわっかやるの。おとうさんが、せんせいにあいたいって、せんせいもみてやってね。みたがってんの。」      1980年 5月作 より
 私は、この文章がとても印象強く残っているので、今から20年近く前に「忘れえぬ思い出の詩」として、自分の記録として書き残しておきました。この学年の子どもたちとは、その後2年生まで担任し、やがて縁あって、5年生の時に4クラスのクラス替えした子どもたちと再び巡り会えました。恵理ちゃんと同じように、間をおいて4年間担任する子もいました。5年生を担任してから、何日かして、恵理ちゃんのお母さんに道で会ったら言われてしまったことを覚えています。

お母さんのひとこと

「先生は、1・2年生の時は、とってもやさしかったのに、五年の担任になったらちょっとこわくなった。」
 卒業してから、おとうさんと一緒にお酒を飲んだ記憶があります。卒業してしばらくたって大学生になったときに、柳島小学校の夏休みのプール指導員になっていただきました。3年前に結婚しましたという幸せそうな葉書をいただきました。もうかれこれ、あれから10年は、経っているかも知れません。

あれから25年経ち

 やがて月日が経ち、私も定年も近くになる60才の頃、「えのさんの綴方日記」と言うホームページを開設しました。その中の「忘れえぬ思い出の詩・その9」の中に、あなたのこの文章と、他の子どもたちの文を入れ載せることにしました。
 そんな矢先にあなたの訃報を知りました。それも、昨年クラス会を開いた、9月28日(土)の2日前になくなったとのことでした。今回は、人数が少なかったのですが、みんなで旧交を温めました。私のホームページのことが話題になり、渡辺和宏君が話題を提供してくれました。そのときに、箱崎恵理さんの書いたらしい文章が載っているので、連絡を取って電話をしたということを話していたのでした。
 その文章は、忘れえぬ思い出の詩の中に載せてあります。渡辺君がいつ頃あなたに連絡を取ってくれたのかは、そこまで確かめませんでしたが、あなたはこの文章を読んでくれたのでしょうか。今日ここに、何人かのあなた同級生があなたに会いに来てくれました。あなたとの思い出は、ずっと私の心に残っております。それは、今日ここに来た人も、用があってこられなかった人も同じ気持ちだったと思います。
 本日は、クラス会の幹事をしていた、小林秀徳さん、渡辺由紀さん、石井友美さんと一緒に、来ました。今回は、急だったので、クラスの人には、またの機会にします。今度は、大勢の人と一緒に押しかけますね。
 どうぞ、天国でわたしたちを見守っていてください。
2014.2.1(土) 墓前にて 元担任 榎 本  豊

墓参りを終えて

 駅の近くの飲み屋に立ち寄りささやかなお清めをした。1時間くらいの時間であったが、3人は快く快諾してくれた。墓参りに行く前に、渡辺由紀さんは、箱崎さんの実家により、墓参りに行くことを伝えておいてくれた。2年前に、お父様が亡くなり、その後を追うように、1年後の昨年恵理さんは、急ぐように去って行ってしまった。4人で、色んな話をして盛り上がった。由紀さんは、地元のことは、何でも知っていて驚いた。小林秀徳君は、その日は、夜間で現場に行かなくてはならなかったので、アルコールは飲まず付き合ってくれた。その時に持って行った手紙を3人に読んでもらった。「先生、これは直さないとまずいですよ。」と指摘されたところがあった。それは、恵理さんと言うところを、「絵里」と書いてあるところが1カ所あり、それを見つけてくれたのである。小林君には、「榎本先生の文章に、間違いを見つけて赤ペンを入れたよ。」と笑われてしまった。本当は、渡辺由紀さんに、箱崎さんの自宅に持って行ってもらうはずだったのであるが、もう一度書き直し、手紙でお母様に送ることにした。

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