子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月27日(金)高知の研究授業を振り返る

2月27日(金)高知の研究授業を振り返る

第6回「人権教育と生活綴り方」研究会に参加して

 はるばる、東京から朝8時過ぎの飛行機に乗り、4人で高知空港に着き、午後からの授業に十分間に合った。
 この日の研究授業の題材は、教科書通りにやっていたら絶対に生まれない題材であった。「私のお姉ちゃん」とどこにでも出てきそうな題でもあるが、その中味の事実が重たい課題を持った作品である。障害を持った姉のことについて、総合的説明文で書いた作品である。指導案を読むと、昨年の4月ごろから、姉のことを、日記に何度か書いてきている。姉はダウン症である。普通ならば、隠したがる題材である。私もかって、姉に障害を抱えた子を担任した経験がある。同じ5年生であったが、日記に少し書いてきたことがあったが、親の了解を得ることが出来なかった。それを、今回はクラスで読み会うということだけでも、担任の中内逸郎先生に敬意を表したい。ここまでたどり着くまでには、書き手本人のKさんと家族との理解がなければ、達成できない。さらにこの事実が、クラスに伝わることによって、今後多くの人がこの重たい事実を知ることになる。そのことまで、しっかり受け止めて、この日の授業があったのだろう。しかも、研究授業である。全国の様々なところから参観している。何度も強調して失礼だが、そのような場に共有できたことに感謝の気持ちで一杯である。

1回限りに事実を大切に書かせる

 Kさんが、姉と向き合って生きてきた事実を、ある日の出来事を思い出しながら、いくつか書いている。それは、初めて姉に会ったときの、クラスの子どもたちの反応についても、淡々と書いている。「あの子だれ?」「なんであんなに背が低いが?」「顔がみんなとちがう感じがする。」と、その時の辛い思い出を書いている。「お姉ちゃんしょうがいもっちゅうき。」と答えているときの、Kさんの気持ちを考えることが大事だ。
 5年生になってからも、同じような反応が続いている。ここでは、具体的に名前が出て、Kさんに悲しい思いをさせている。この発言をした子どもたちは、このクラスにいたのだろうか。友達のにやにやした反応に、「そうよ。」と腹を立てて反応している。このときに関わっていた子どもたちは、どんな反応だったのだろうか。
 Kさんには、2人の姉と兄がいる。2人は、双子で、23才になるという。兄の方は、大学生で、R姉さんがダウン症なのである。

「こばと会」の存在とKさんの想いを読み取る

 この日の授業は、ダウン症の人達や家族が集まる「こばと会」の存在意義を知ることと、母親の願いと、それを受け継ごうとするKさんの想いを読み取ることにねらいがあった。2つのねらいを子どもたちは、文章に即して具体的に指摘し合っていた。読み取りも深い。最後に、「今の世の中じゃあお母さん死ねんで。もっと、ダウン症でも通用する世の中じゃないと。」と言う母親のひとことに、「大丈夫。お姉ちゃんだけのことやったらかながおるき。」というKさんの反応に、「ありがとう。お母さん泣いてしまうわ。」という母親とのやりとりまでを読み取らせたい。
 それにしても、よくぞここまで子ども集団を育てたと、感心した。

「日記」指導がやはり大切

 今、現場は忙しくて、子どもに日記などを書かせる教師が少なくなってきた。子ども自らが、自分で題材を選ぶことに綴り方・作文の意義がある。東京で42年間綴り方教育で、生きてきたが、今の現場のようすを聞くと、子どもたちに日々の暮らしの中から、価値あることを書かせる実践は、ほとんどなくなりつつある。
 プライバシーの問題がやかましくなり、子ども同士の繋がり、教師と子どもの繋がりも、ますます弱くなってきている。子どもたちの鋭い感性を、眠らせて、喜びや悲しみや怒りを正常に感じさせない子どもたちを育てようとしているのではないだろうか。
*喜び・悲しみ・怒り・悔やみなどの感情は、育たず大人になる
 日常の何気ない事実の中に、心を動かす事実がたくさん転がっている。それをきちんと受け止めて、表現していく方法が、昔からこの日本の国にはあった。戦前国定教科書の時代にも、「綴り方」という教科が、週に2時間確保されて、そこだけは、自由に子どもたちに、文章を書かせることができた。教科書から「作文」という言葉が消えて、子どもたちに「題材」を選ぶことが出来なくなった。それを取り上げずに日々過ぎていく子どもたちは、将来どんな大人に育っていくのであろうか。

日常のくらしの事実から出発したい

 この日の授業にたどり着くまでには、1回限りの心に強く残った出来事を、心や体の認識器官をそれぞれ働かせながら、ひとまとまりの文章を何度も積み重ねてきた結果の末にむかえた授業である。このやり方は、何年生を担任しても、大事にしたい方法である。子どもたち自身が、自分で題材を見つけてそれを日記に書いていく。その文章を、担任は、読み、その子の何がすばらしいかを、本人に自信を持たせて、クラスの中に広げていく。 そこに行くには、子ども集団に、何を書いても良いという学級作りがある。それは、友達同士を信頼し、教師を信頼しなければ、本音の言えるクラスにはならない。そこから、書くことへの意欲喚起が育っていく。クラス全体に、その気持ちを広げていくのは、作文の授業が大きな効果が得られる。授業の形も様々である。文章の書き出しの指導。会話を大事にする指導。はじめ・なか・おわりと構成のきちんとした指導。読み直して推敲をして、文章を丁寧に想い起こしをする指導。このような授業をすると、クラス全体の文章表現力が大いに伸びていく。

子どもたちの感性を大切にする授業を広げてほしい

 この日の授業を、完成した文章を、クラスのみんなで読み合う「鑑賞」の授業になる。学習指導要領の国語の作文指導過程の中にも、「交流」という言葉が書かれている。しかし、教科書の「書く」単元で決定的に欠けていることがある。それは、子ども自身が「題材」を選べずに、書かされているのが現状である。日常の何気ない生活の中で起きる出来事から、値打ちあることを見つける作業を省いた「書くこと」作文になっている。
 中内学級の中で生まれるような作品は、日々の「日記」指導と「作文」の授業の積み重ねの結果によって成立した授業であった。まずは、「日記」指導を、どこのクラスでも当たり前に実践する教師が、一人でも多く出てくることを願っている。

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