子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2010年度の作品

2010年度の作品

低学年

学どうでのこと  1年 女子

 このあいだ、学どうのとしょかんで本をよんでいま
した。
よむ本がなくなってきて、つまらなくなったので、学
どうしつにいきました。
そのとき、おにいちゃんとゆわくんがいました。わた
しが、おにいちゃんとゆわくんに、
「なにかであそぼう。」
といいました。ゆわくんが、
「バブー。」
といいました。おにいちゃんが、
「バブごっこしよう。」
といいました。わたしが、
「いいよ。」
といいました。わたしが、
「ゆわくんは、どうする。」
とききました。ゆわくんも、
「バブごっこしよう。」
といいました。わたしが、
「じゃあ、ひとりが『バブ』で、つかまった人がバブに
なって、さいごにのこった人がかちね。」
といいました。
 バブごっこであそびはじめました。あそんでいたら、
学どうのせんせいが、おこって、
「十ぷん、せいざ。」
といいました。それで、わたしとおにいちゃんとゆわくんが、
「はあい。」
といいました。学どうのせんせいが、
「十ぷんたったから、あそびにいってもいいよ。」
といいました。学どうのせんせいが、
「ただし、つぎはやらないでね。」
といいました。そのあと、わたしとおにいちゃんとゆわ
くんはあそびにいきました。
 学どうは、みんなでつかうものだから、学どうのせん
せいはわたしたちのことをしかったのだとおもいました。
さわいで、わるかったなあとおもいました。

おねえちゃんにママチャリを教えてもらったこと 2年 女子

 十一月二十四日、私はおねえちゃんにママチャリのの
り方を教えてもらうことになりました。
まず、ははにじてん車のかぎをもらいにいきました。ははは、
「はい。」
と言って、わたしにかしてくれました。わたしはかぎを
うけとって、おねえちゃんの方に行きました。
わたしが、
「ママからじてん車のかぎをもらったよ。」
と言うと、おねえちゃんは、
「じゃあ、今行くから、くつをはいてまってて。」
と言いました。わたしは、
「うん」
と言いました。わたしは、げんかんに行って、くつを
はきました。まっていると、おねえちゃんがきました。
わたしは、ドアをあけました。
おねえちゃんがすぐうしろにいると思ったから、
ドアから手をはなしてしまいました。
ドーンという大きな音がしてびっくりしました。
おねえちゃんがいなかったので、わたしはもう
一度ドアをあけました。
わたしはおねえちゃんに、
「ごめんね。うるさかったでしょ。」
と言いました。おねえちゃんは、
「べつにいいよ。」
と言いました。わたしは、おねえちゃんのために、
ドアをあけてあげました。
 げんかんの外にでて、おねえちゃんといっしょに
エレベーターにのりました。
一かいについたあと、ははのママチャリをもってき
ました。
そして、じてん車にのるれんしゅうをはじめました。
まず、おねえちゃんが一かい見本をやりました。
わたしは、
(あんなにじょうずにのれてすごいな。)
と思いました。おねえちゃんが、
「やってみな。」
と言ったので、じてん車にのってみました。でも、
うまくできなくて、ころんでしまいました。
ちょっとちがでました。
そしたら、おねえちゃんがバンドエイドをもって
きてくれたので、はりました。
また、おねえちゃんがお手本を見せてくれました。
わたしは、
(なんでできるんだろう。)
と思いました。わたしは、
「なんでできんの。」
と聞いてみました。おねえちゃんは、
「れんしゅううしたからだよ。」
と言いました。わたしは、
(いつものおねえちゃんとちがう。)
と思いました。いつもは、ケンカばかりしていて、
たたかれたりバカとか言われたりしてとてもこわ
いからです。
 わたしは、もう一かいやってみました。でも、
のれませんでした。
そしたら、おねえちゃんが、
「こわがらないでやることだよ。」
とコツを教えてくれました。何かいも何かいもや
りましたが、できませんでした。
十五かい目くらいでやっとのれました。わたしは、
(うれしいな。)
と思いました。おねえちゃんは、
「よかったね。」
と言ってくれました。わたしはもっとうれしくなり
ました。
そのあと五かいくらいれんしゅうしてから、
おうちに帰りました。
 ははにそのことを話したら、
「よかったね。」
と言いました。わたしは、
「うん。」
と言いました。おねえちゃんがまた
「よかったね。」
と言ってくれました。みんなにそう言われて、
もっともっとうれしくなりました。

中学年

みずきが・・・!  3年 女子

 二週間ぐらい前のことでした。二時間目は、
じきゅうそうのれんしゅうでした。
三年生と四年生で、じきゅうそうのれんしゅうを
することになりました。
校庭でたいそうをしました。
その後、スタートラインに、二年生と四年生
で行きました。
五十嵐先生が、
「ようい、ピー。」
と言いながら、ふえをふきました。みんなと私は、
スタートしました。
南池を通るとちゅうに、みずきさんが、一人か二人
の足にひっかかって転んでしまいました。
わたしは、
「だいじょうぶ。」
と走りながら言いました。みずきさんが、
「うん、だいじょうぶ。」
と言いました。続けて、
「ちょっといたいけど。」
と小さい声で言いました。
みんなは、何も言わずに行ってしまいました。
みずきさんは、たちあがって、わたしは、また、
「だいじょうぶなの。」
と言いました。みずきは、
「うん。」
と言いました。わたしは、
(本当は、いたいんだろうなあ。)
と思いました。
そのまま走って、五号とうの前くらいに来て、わたしは、
「いたい。」
と聞きました。みずきさんは、
「うん、ちょっとね。」
と言いました。
また、そのまま走って、ゴールしました。
私は、みずきの足を見てみました。
そしたら、血がいっぱい出ていました。
私とみずきさんで、松井先生のところに行きました。
わたしが、
「みずき、スタートした時ころんだ。」
と言いました。松井先生が、
「ほけんしつに行ってきな。」
と言いました。続けて、
「一人で行ける。」
と聞きました。みずきさんは、
「うん。」
と言いました。
みずきさんが、あるいてほけんしつに行きました。
三分ぐらいして、松井先生が、番号札を渡してくれました。
わたしは、
「みずきのも、もらっとく。」
と言いました。松井先生が、
「じゃあ、わたすね。」
と言いました。
一分ぐらいたちました。わたしは、
(まだかなあ。)
と思いました。
一分ぐらいたって、みずきがもどってきました。
わたしは、
「だいじょうぶ。」
と聞きました。つづけて、
「ほんとうは、いたかったでしょ。」
と言いました。みずきが、
「うん、だいじょうぶだよ。」
と言いました。わたしは。
(かわいそうだったなあ。)
と思いました。つづけて、
(はあ、よかった。)
と思いました。

友だちにいじめられた  4年 男子

 十月のげじゅん頃、一時間目の終わりの五分休みに、
二時間目のじゅんびをしようと机の中を見ていました。
すると、とつぜん同じクラスのゆかさんが、ふでばこ
をとってきました。
ぼくは、
「あっ、かえしてよ!」
と言って追いかけていきました。ゆかさんは、笑いなが
らにげていきました。
ぼくは、ずっと追いかけていました。
すると、同じクラスのゆめさんが、ノートを机の中から
とりだしていました。
ぼくは、
(あっ。)
と思いました。ぼくは、ゆめさんも追いかけました。
すると、同じクラスののり子さんが、机にかけてある
手さげバックをとっていました。
ぼくは、三人を追いかけていました。
すると、同じクラスのれい子さんが、机の中から教科
書をとっていました。ぼくは、
(やっべ!)
と思いました。
ぼくは、四人を追いかけていました。
四人は、笑っていました。
教室でしばらく追いかけていたら、ゆかさんたちがろ
う下ににげていきました。
ぼくは、ろうかまで、追いかけていきました。
ゆかさんたちは、ろうかのおくの方に行って、六年生の
教室の前の女子トイレに入っていきました。
ぼくは、
(一かい後ろに下がって、出てきたら、また追いかけるぞ。)
と思いました。
ぼくは、少し、後ろに下がったら、ゆかさんたちが、
女子トイレから出てきました。
ぼくは、
(いまだあ!)
と思いました。
ぼくは、ゆかさんたちのところに走って行きました。
ゆかさんたちは、また女子トイレに入りました。
それを何回かくり返していました。
そのあと、ゆかさんは、きょうしつの方に走って行き
ました。ぼくは、追いかけていきました。
ゆかさんたちは、教室に入っていきました。
ぼくは、ずっと追いかけました。
ぼくは、とうとうくやしくなって、
「返せよ、このこそどろ!」
と大声で言いました。
ぼくは、大声でそういったので、同じクラスの大森さんが、
「うるせいよ。」
と言いました。
ぼくは、その後、くやしくて泣いてしまいました。
ゆかさんたちは、その後で、とった物を返してくれました。
教室で、同じクラスの利恵さんは、
「人をいじめて楽しいのかよ。あやまれよ。」
と言っていました。
のり子さんとれい子さんは、ぼくの所に来て、
「ごめんね。ごめんね。」
とずっと言ってくれました。
ぼくは、うなずきました。
ゆかさんとゆめさんは、何も言ってくれませんでした。
同じクラスの公恵さんは、
「だいじょうぶ?」
と言ってくれました。
すると、同じクラスの幸夫さんと弘太さんが
「浩、どうして泣いているの?」
と聞いていました。公恵さんが、
「ゆかちゃんたちに、いじめられたんだって。」
と言いました。幸夫さんが、
「いじめるなよ。」
と言いました。弘太さんも、
「そうだよ。」
と言ってくれました。すると、たんにんの桜井先生が来て、
「どうしたの?」
と聞いていました。公恵さんが、
「ゆかちゃんとゆめさんとのり子とれい子ちゃんに、
いじめられたんだった。」
と言いました。桜井先生は、
「じゃあどうしてのり子とれい子ちゃんはあやまってて、
ゆめさんとゆかさんは、あやまってないの?これじゃあ、
ゆめとゆかは、あやまってないの?
これじゃあ、あの二人は、やってないみたいじゃない。」
と言っていました。ゆかさんが、
「ごめんね。」
と言ってくれました。ぼくは、うなずきました。

高学年

ぼくが不登校と言われていやだったこと 5年 男子

 十月十九日火曜日の三時間目のことです。
その時、担任の小沢先生は、二人目の子供が生まれる
予定だったので、きゅうかを取りました。
なので、かわりに、四年生の担任の松井先生が来ました。
少したって、桜井先生が、
「手紙あるから、今、配っちゃうからね。」
と言いました。桜井先生が手紙を配りました。
その中に、「不登校・引きこもりへの対応」という手紙
が配られました。その題名を見て、友だちの杉本君とな
つき君と敬子ちゃんが、ぼくに対して悪口を言ってきま
した。さいしょ敬子ちゃんが、
「これ、和君じゃん。」
と言いました。その次、なつき君が、
「たしかに。」
と言いました。その後、杉本君が、
「あいつじゃん。」
と言いました。
(ぜったい、ぼくのことだ。)
と思いました。
その後、また、敬子ちゃんが、
「和君におすすめだよ。」
と言った後に、その三人が、
「そうだよ、おすすめだよ。」
と言ってきたので、ぼくは、
(なんだし、うざっ。)
と思いました。配られた手紙に、
(何で、こんな手紙がこの世にあるんだし。)
と思って、手紙をにくみました。ぼくは、その後、
少しいやな顔をしました。
なつおさんは、ぼくが少しいやな顔をしたことに、
気づいていたのか、ちょっとだまりました。
学校が終わっても、少しいらいらしてたので、
ばれないところで、思いっきり、大きな声で、
「ああああ。」
と一回さけびました。それでも、気がすまないばあいは、
家で、まくらを少し上に投げて、思いっきりそのまくら
を一回なぐります。こういうときは、家の人が部屋にい
ないときにやっています。
 ばれるといやなので、そうしているのです。
こんなことが、今まで何回かありました。
それで、火曜日は、気がすみました。その後、ねました。
 きょうあったようなことは、けっこうよく言われてい
ます。
たとえば、朝早くおくれずに、学校にきて教室にはいると、
「宿題やった。」
と言います。やってこなかったときは、せめられてしまい
ます。よく言う人は、杉本君、笹君、夏樹君、近藤君
が言ってきます。
今日の四時間目に、小沢先生が、そのことを話しました。
 小沢先生は、ぼくのことを、
「不登校ではありません。」
と言ってくれました。
話し合いが終わってから、夏樹君が近い席だったので、
「ごめんね。」
とあやまりに来てくれました。ななめ前にいた杉本君も、
「きのうごめんね。」
とあやまってくれました。
それで、みんなが反省してくれたので、
(よかったなあ。)
と思いました

ぼくの母は、卒業式には来ない  六年  男子  

 僕は、今、父と姉二人の四人暮らしです。  
でも前は、父ではなく、母と四人で暮らしていました。
僕は、母の知り合いの家に泊まっていました。
そのとき、僕はまだ、五才でした。
遊んで疲れたのか、母のヒザで、寝てしまいました。
少したち、僕が、起きて前を、見ると、
変なおじさんがいました。僕は、母に、
「この、おじさんだれ。」      
と聞きました。母は、
「海渡のパパだよ。」
と、いきなり、言われたので、僕は、ビックリしました。

約束が破られてしまった
 それから、次の日、僕は、父と母と姉二人の五人家族にもどって、暮らすことになりました。でも、僕は、
(うれしいけど、お父さんって呼びずらいなあ。)
と思いました。
 数日後、久しぶりに家族で、食べに行く予定になっていました。
 次の日の夜、父は、約束の時間には、帰って来ませんでした。でも、それは、しょうがない事なのです。父は本当は、帰って来たいけど、仕事が忙しいから帰って来れませんでした。母が、怒って、
「出ていく。」
と言って、お金とカードを置いて出ていこうとしました。僕は、
「出ていかないでよう。」
と泣きながら言いました。でも、母は、
「ダメ」
と言われました。僕は、
「だったら、おれも、連れてってよ。」
と言ったけれど、母は、
「ダメ」
と言ってそのまま、出ていってしまいました。僕は、父が、帰って来るまで、ずっと、家で泣いていました。姉二人は、だまって、ぼくといっしょにいてくれました。

保育園の卒業式
 僕は、保育園の卒業式は、
「来るかなあ、来るかなあ。」 
と、母が来ることを、ずっと思ってました。でも、母は来ませんでした。その代わり、父が卒業を祝って、来てくれました。

堤小への入学
 一年生の、入学式にも、母は来ませんでした。その代わり、父がまた来てくれました。その時に、僕は、
「もしかして、鹿児島に帰ったのかな。」
と思いました。母のふるさとは、鹿児島県なのです。父も、同じ鹿児島県出身です。
「もう、一生会えないのかな。」
と思いました。でも、会えるチャンスが来ました。

鹿児島行きの話し合い
 夏休みにはいる少し前に、父が、いきなり僕に向かって、
「お姉ちゃんたち、呼んできて。」
と言いました。僕は、二人の姉の部屋に行き、父がいるところへ連れていきました。父が、
「鹿児島に帰る。」
と、みんなに言いました。僕は、
(もしかしたら、お母さんに会えるかもしれない。)
と思いました。だから僕は、
「行く。」
とすぐに返事をしました。二人の姉は、予定があるかわからないので、すぐには返事はしませんでした。
 それから、何日かして、この鹿児島行きは、実現することになりました。

久しぶりの鹿児島県への旅行
 父は、鹿児島に住んでいる母の妹に、ちょくちょくメールをしていました。僕からみると、おばさんに当たります。いよいよ六年生の夏休み、家族みんなで、鹿児島に旅行に行くことになりました。僕は、
(よっしゃあ、やっとお母さんに会える。)
と思いました。僕の、心の中で、はしゃいでいました。
 ぼくたち家族は、飛行機で羽田から、鹿児島空港に行きました。着いてからは、レンタカーを借りて、とまるホテルまで行きました。
(いよいよ、お母さんに会える。)
と思うと、心がドキドキしてきました。しかし、母の妹は、母とケンカをしていました。理由は、はっきりしていませんが、母とは、会えませんでした。
僕は、とてもがっかりしました。

あと四か月で卒業式
(じゃあ、小学校の卒業式にも、来ないのかなあ。)
とずっと悲しい気持ちに、なりながら帰りました。今では、母の事は、忘れて、楽しく暮らしています。母より、父の方が、僕や、姉二人を、大事に育てています。大事な家族です。でも、母との思い出や家族五人でいた、思い出を、いつまでも忘れたくは、ありません。でも時々、ほんとに、母に会いたいです。
 学校の生活は、父も母も知りません。父には、時々言いますが、母にも、知ってもらいたいです。でも、心の底では、また、五人で暮らしたいです。それが、かなったら、もっと、楽しい生活になるでしょう。

6年生の作品を、他の学年の児童は、どう受け止めたか。

私の家族     三年 女子 

 昨日、人権集会がありました。私は、三年生の代表でした。六年生の代表は、Oさんでした。Qさんは、お母さんのいないことを書いていました。その作文を読んでいるとちゅうに、私は、
(私は、お父さんがいないなあ。)
と思いました。私は、年長さんくらいまで、長野県にいました。そのころまだ、私のかぞくは、四人家族でした。三才くらいの時、母がごはんを作っていました。作り終わって、私がつくえにはこびました。父がごはんを食べようとしました。そしたら、ごはんの中に、かみの毛が一本はいっていました。父が、
「ごはんもういらない。」
と言いました。母は、何も言いませんでした。私は、
(何で食べないんだろう。かみの毛をとって食べればいいのに。)
と思いました。ごはんの中に、かみのけが、入っていることが、なぜか多くなりました。 私は、年長さんになりました。そのときは、わたしのおばあちゃんのああちゃんが家にいました。母は今までのことを、ああちゃんに言いました。その時、母は、けついしました。母は、
「長野を出て、東京に行こう。」
と言いました。つづけて、
「MとTは、どっちについていく?」
と聞きました。私と兄のTは、ちょっとだまっていました。わたしと兄は、
「ママに、ついて行く。」
と言いました。私と母と、兄とああちゃんは、そっと家を出ました。私の友だちの母の車に乗せてもらって、駅に行きました。四人は、友だちのお母さんにお礼を言って、電車に乗って、東京に行きました。
 一週間くらいして、長野に行って、東京にひっこしました。私は、新しいようちえんに行きました。兄は、今もいる堤小学校に行きました。母と父は、まだりこんしていないので、私は、
(りこんするのかなあ。)
と思いました。その後、私は、この堤小学校に来ました。今の生活ではなく、長野での学校はどうだったのか、ぎもんです。たまに長野の友だちに手紙を送ったりします。

あまり聞きたくなかった 四年 女子

 二月十七日に、人権集会がありました。一年生から六年生までの人の作文で、えらばれた一人一人が読む集会でした。私が聞きたくなかったのは、六年生のKさんの作文でした。六年生の作文は、母がいないことの作文でした。私も父がいません。ようちえんの時からです。私は、楽しいことを考えて、六年生のKさんの作文を聞かないようにしましたが、父のことを思い出してしまいました。六年生のひとは、母がいないことですが、私は、父がいないのです。ようちえんの行事で、母の日や父の日がありました。母の日は、ようちえんで、私たちのいろいろなお母さんたちが、来てくれるぎょうじです。母の日の時は、母が来てくれました。父の日は、ようちえんを休んでいました。なぜなら、父がいないからです。私だけいないのは、とてもつらいからです。ようちえんは、年少、年中、年長があって、私は、年中からようちえんに入っていました。年中の時は、母の日は行きましたが、もう年長になってからは、母の日も父の日も、ようちえんを休みました。母が、
「今日は、母の日だけど、父の日も行かないよ。一人だけお父さんがいないのは、いやでしょ。」
と言われたのは、今でもずっとおぼえています。年中の時、母のと父のための手紙みたいのを作る時がありました。私は、少しかなしくなりました。母の手紙の用紙は、ピンクで、父の手紙の用紙は、青でした。私の父は、青が大好きでした。私は、父がいませんが、六年生のKさんは、母がいないと聞いて、
(わたしよりつらいのかなあ。)
と思いました。母は、何でもやってくれます。でも、そんな母がいなくなるのは、つらいと思います。私もようちえんのそつえん式は、母だけでした。でも、母がいてくれただけで、私は、うれしかったです。そんなことをずっと思って、六年生の作文をきいていたら、六年生の作文は、終わってしまいました。こんな人権の作文は、聞きたくありませんでした。父は、よく高い高いという、上に高くなげてキャッチしてくれるのが大好きでした。私は、母がいます。だから、母をもっと大切に生活したいです。

    

堤小に転校してきたのは 五年  男子 

 僕は、二年生の九月に堤小へ、長野県から転校して来ました。
 なぜ堤小に転校してきたかというと、長野県にいたときの事です。その時は、一年生になるちょっと前の月に、長野の県ないから引っ越しきました。それまでは、マンションに住んでいました。一軒家に、僕、妹、母、父の四人で暮らしていました。
 父は、その日くらいから様子が変でした。どこがおかしいかというと、怒ったり、ほめたりするする普通の人だったのに、その時から気が短くなりました。
 たとえば、母が作った食べ物に、髪が一本入っているだけで、
「なんで髪が入っているんだ!もうこんなの食べない。」
などと言って、その食べ物が入った皿を、床に投げつけて、皿を割ったたりしていました。
 僕は、いつも、
(なんでそんな事で、お皿を割ったりするんだろう?)
と、思っていました。それが日に日にひどくなってきました。
 僕は、ただ手がすべって、お皿を落としただけで、父に殴られる事もありました。 
 一年生の終わりごろ、僕がまたお皿をテーブルから落としてしまった時は、もっとひどく、一時間正座させられた事もありました。
 その次の日、母が僕を呼び、話をしました。 その話の内容は、その時住んでいた家から僕と母と妹で、母の祖母(母と母)と祖父(母の父)が住んでいる東京に逃げるという事でした。
 僕は、学校の友達と別れるのが嫌だったので、
「嫌だ。」
と答えました。
 それから、二週間ほどたち父が、仕事でアメリカの、ニューヨークへ行った時、母のケータイに一通のメールがとどきました。
 その内容は父からで「今、飛行機に乗っています。」という事でした。
 そのメールを見て、僕と母と妹で、
「この飛行機、海に落ちてパパ死ねばいいのにね。」
となってほしい事を三人で言いました。
 しかしその飛行機は、海には落ちませんでした。母は、父が無事だったことをメールで知り、
「なんだよ!」
と言いました。 
 それから、僕は二年生になりました。父の気の短さは、またひどくなりました。ついに六月ごろ母は、僕に、
「もうこの家からを出よう。」
と言いました。ぼくは、
「友達と別れるんでしょ。」
と言いました。母は、
「ママは、もう限界だな。じゃあ一週間だけ東京へ、行って見よう。」
と言いました。僕は、
「うーん。わかった。」
と言いました。 
 祖母と祖父に連らくし、七月に東京に一週間行くことになりました。僕は、学校を一週間休みました。僕たちは、父に見つからないように東京へ行く準備をしました。なぜ父に見つからないようにするかというと、また父になんかやられるからです。東京へ行くとき祖父と祖母と長野の家の近くで、待ち合わせをし、その時間に家を出て、母が家で昼寝をしている父に、
「今から一週間、東京に行くから。」
と言い、二十秒くらい待ちました。父は、パンツ一っちょで、寝ているので外に出られませんでした。僕は、無言で祖母と祖父の所へ行き、タクシーで駅に向かいました。電車に乗って、東京駅に着きました。そこからまた電車にのって、鐘ヶ淵駅に着きました。そこから歩いて、祖母と祖父の住んでいる団地に行きました。
 僕たちは、長野に戻った後の事を話しながら、そこで一週間いました。
 ついに長野に戻る時、僕は、
(帰りたくないなあ。)
と、思っていました。長野の家に着き、僕たちは家に入りました。すると母たちは、一階で話を始めました。僕と妹は、二階で遊んでいました。一時間くらいして、話しが終わると、父が僕に、
「豊!最近きっていなかった髪を切りに行こう!」
と言ってきました。僕は、
「行かない!。」
とは言えず、強引に、僕を車に乗せました。すると、父は、
「あっ!家のカギを忘れた!」
と言い、家に戻って行きました。
 一分くらいして母と祖母が来て、僕を車から降ろして、僕に、
「豊!なんで車に乗っているの?」
と聞きました。僕は、
「パパが、髪を切ろうって言って、車に乗せたの。」
と言いました。すると父が、
「何やってんだ!早く車に乗って、髪切りに行くぞ!」
と言いました。母は、
「何言ってんの!行くわけないじゃん。一週間、何でいなかったかわかってんの。」
と言うと、父は、
「はぁ~?お前こそ、なに言ってんの。」
と言い合いを始めてしまいました。しばらくすると、言い合いがとまり、母と父と祖母と祖父は、また話を始めました。しばらくすると、母が僕に、
「豊。もうパパと会えなくてもいい?」
と聞いてきました。僕は、
「うん。いいよ。」
と答えました。母は、
「学校変わるんだよ、わかってんの?」
と言いました。僕は、
「うん。わかってる。パパと離れられるなら。」
と言いました。母は、
「じゃあ、じいじ(母の父)と東京に行く。」と聞きました。僕は、
「うん。でもママたちは?」
と言いました。母は、
「パパともうちょっと話してから。たぶん明日には、帰るから。」
と言いました。僕は、
「わかった。」
と言い、一時間後。祖父の車に乗る時、母が、
「荷物は、トラックで来るから。」
と言いました。妹と母と祖母の三人は、残りました。僕は、
「うん。」
と言い、祖父二人で、東京に祖父の車で、行きました。
 その次の日、母たちが東京に来ました。僕は、
「パパともう別れたんだよね。」
と聞きました。母は、
「そうだよ。」
と言いました。僕は、ほっとしました。
 それから一週間たちました。母が、
「学校どこにする?」
と聞きました。僕は、
「なるべく近いところがいい。」
と言いました。すると、祖母が、
「堤がいいんじゃない?」
と言いました。母が、
「ああ、いいね。」
と言いました。ボクは、
「どこそこ?」
と聞きました。母が
「ママが通っていた小学校だよ。ここからすごく近いし、そこにしたら。」
と言いました。僕は、
「うん、いいね。」
と言いました。
 僕が転校する学校は、堤小学校に決まりました。そして僕は、堤小に行くことになったのです。

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