子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月17日(金)3丁目の夕日の頃その2

3月17日(金)3丁目の夕日の頃その2

 1945年の戦争に負け、私が小学校に入学したのが、1951年になる。まだまだ、戦争の傷跡が、結構残っていた。前にもこのことは書いた記憶があるが、上野動物園に母に連れられていく途中に、戦争で家を焼かれたりした人たちが、鶯谷の駅から、ずっとバラックのような建物に住んでいた。また、上野駅のホームの屋根には、浮浪児の人が、たくさん寝転がっていた。戦争で、手や足がなくあった傷痍軍人が、白い着物を着て、お金をカンパしてと、訴えて立っていたりした。
 学校に行くと、クラスの中に父親がいない子供が結構いた。戦争で、父親が亡くなっていたのだ。また、鼻の下に青鼻を垂らしている子が多かった。ちり紙がない子どもは、洋服でふいたりしていた。だから、腕のところが、てかてかに光っている子どもがいたりした。鼻紙がないので、新聞紙を小さく切って、ちり紙代わりにしている子が結構いた。そういう子どもの鼻の下は、新聞紙のインクでいつも黒かった。トイレの紙は、今のような高級なものはなかった。たいてい新聞紙を切って入れてあった。汚い話で恐縮だが、おしりをふくときは、その新聞紙を手でもんで、柔らかくしてふいたものだった。

まずくても飲んだ

 給食は、始まった頃で、脱脂粉乳が、牛乳代わりに配られた。GHQ(連合軍の進駐軍)が、アメリカから家畜のえさを、腹を空かしている日本の子どもたちに配給した。ユニセフでお世話になったのである。まずくて、鼻をつまんで飲んだ記憶がある。鯨の肉は、当時のタンパク源として、結構出された。

季節ごとの遊び

 家に帰ると、今ほど、車などは走ってなかった。道路が、路地裏と言って子どもたちの遊び場だった。季節によって、遊びが流行った。冬のたこ揚げ、竹馬乗り。春になると、空き地での三角ベース。すもう。夏は、セミ取りをしたり、近くの小川に出かけて、ザリガニや小魚を釣ったりした。夜になると、蛍がでるので、蛍狩りを楽しんだりした。秋は、メンコ、ビーダマ、ベイゴマ、剣玉などが流行った。
 お金の価値が、今より価値があった。1万円、5千円札などはなかった。一番大きなお札が、聖徳太子の千円札だった。10円、5円でも駄菓子屋に行けば結構なものが買えた。今はなくなっているが、50銭玉がまだ使われていた。

当時の漫画雑誌

 貸本屋さんがあり、好きな漫画本を、1冊いくらかで貸してくれた。当時の子ども雑誌は、赤銅鈴の助やいがぐり君などが付録になっていた「少年画報」「冒険王」「漫画王」等という月刊雑誌が、売られていた。あまり小遣いもたくさんなかったけれど、月に一度その雑誌を買うことが楽しみだった。3冊も買えないので、「少年画報」を購入していた。それを買うと、中に付録の単行本の漫画が、6冊くらい入っていた。
 自分のうちも、貧しかったが、日本中の人々が、みんな貧しかったので、何とも思わなかった。むしろ、お腹をすかしていたが、いつも心は明るく毎日が、遊びで充実していた。

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