子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月20日(月)夢のかけ橋

3月20日(月)夢のかけ橋

 この間のクラス会で、幹事をしてくれた遠藤君が、6年生最後お班日記に感動的な文章を書いてくれた。6年間をふり返って、締めくくりの文章を書いてくれた。改めて、その文章を読みながら当時のことをもう一度思い起こしている。ここに、その文章を、載せておく。

夢のかけ橋 遠藤 昭城

1997年4月から2002年3月
 今日は、2002年の3月11日。僕たちがこの立花小学校に入学したのは、1997年の4月7日。胸をどきどきさせながら校門を通ったときからもう6年。そう、あの日からが、夢のかけ橋の出発地点だった。

緊張の入学式

 その日ぼくは赤いブレザーを着た。周りの男子はみんな黒やグレーだった。一人だけ赤でいやな気分だった。最初は体育館に集まった。僕は「えんどう」だったので、席は一番前だった。かなり緊張していたので、あまり覚えていないが、宮崎二美枝先生が自己紹介する時、大きなさいころを使って絵で名前を教えてくれたことは覚えている。

最初の友達は「おくのしょうご」

 1の1の教室に行き、机に黄色い紙で「えんどうあきしろ」と書いてセロテープではって置いてあった。僕はそこに座り隣の席を見た。「おくのしょうご」と書いてあった。それを見て、
(誰だろう、『おくのしょうご』って?友達になれるかなあ。)
と僕は不安に思った。おくのしょうご君は、背は僕より小さく丸い顔のかわいい男の子だった。僕は今とちがって、スポーツがりだった。おくの君から声をかけてくれた。とてもしゃべりやすく、すぐ友達になれた。丸山君、大久保君を抜いて、おくの君は立花小では僕の第一号の友達であった。でも、しょうご君は、二年生の初め頃、転校してしまった。

真っ黒になったノート

 一年生での勉強では、大変というものはなかった。数字、たし算、引き算。どれもたいして困ることはなかった。僕はひらがなを書くとき、どうしてもていねいに書こうとして、書いた字を何回も消しゴムで消した。そのたびノートが黒くなり、破けたりした。けれどがんばって書いた字を見た宮崎先生は、
「あきちゃん、字きれいだね。」
と、いつもほめてくれた。二年生になっても宮崎先生であった。二年生の時は、ドッチボールが流行っていた。だから宮崎先生は、よくプリントなどに『たまドッチ』と言うかわいい絵を描いてくれた。それがとても評判が良かった。今でいうと、『はらっぱ』のようなものである。二年生までに、五人の人たちがほかの学校へ行ってしまった。同時に宮崎先生も二年生の終わりに、足立区の小学校に行ってしまった。

宿題多し早坂先生

 三年生になり、新しい先生が三人やってきた。早坂都々子 先生、古屋利光先生、田中(道源)美千代先生である。その中の早坂都々子先生が僕たちの担任の先生になった。
(どんな先生なのかなあ。)
と、僕は期待に満ちていた。早坂先生は、僕と同じアトピーで、いつもぼうしをかぶり、首にタオルを巻いていた。早坂先生は、結構厳しくて習字などは良くうるさいと、
「もっと静かにして集中してやりなさい。先生は、正座をして字を書いたんですよ。」
と言われた。四年生の時には、算数のプリントをなくし、かなり怒られた。宿題が本当に多く感じたけれど、それは宮崎先生との宿題と比べるとで、本当はたいしてすごくなかったと今は思う。

とても長かった五・六年生

 結局一番長く感じた学年は、この高学年の時だったと思う。五年の先生は、外見から見ると、とても恐い榎本先生である。今ではもうみな榎さんと呼んでいる。榎さんのクラスになってすぐに、僕は喘息で入院してしまった。初めての入院だった。墨東病院に入院した。友達もお見舞いに来てくれて、一週間で退院した。『詩のノート』などかなり遅れていて、あせっていたが、すぐにみんなに追いついた。榎さんは、日記、詩、新聞の切り抜き、他プリントなど、早坂先生の倍はあった。
(これが榎さんの宿題か。)
と、びっくりした。榎さんは昔の遊びを良く知っていて、剣玉、ベーゴマなどたくさんやった。その中でも、剣玉は、みんな強制的に買わされた。僕は、兄の剣玉で三年生くらいの時やったことがあるので、クラスの中では早く技が出来た。榎さんの剣玉試験の一級に合格したのは、僕が第一号であった。灯台を十回中二回やるのを、三回中二回でやった・本当にあのときの感動は忘れられない。

塾始まり

 六月には、とうとう塾が始まった。兄二人とも通っている「遊学社」と言う塾である。最初は週2回の火・木で通い始めた。夏にも夏期講習出いつも塾に行った。受験するのは僕だけで、いつものこっていて社会の歴史の勉強などをやった。こんなに友達と遊ばない夏休みは、今までにはなかった。榎さんの宿題も悪魔のようにおそいかかって来た。その中で、戦争のことをおじいちゃん、おばあちゃんなどに聞いて、日記に書くというのがあった。僕もおじいちゃんに話を聞いて日記に書いた。その文章の中に、僕は、「母の姉は中国にいる」と書いた部分があり、榎さんはそれに目を付けた。
「このことをまた詳しく聞いてきてくれない。」
と、僕は榎さんに言われた。また、母にそのことについて話を聞き、「母の姉は中国に」という文章を書いた。この文章を書いて、母の昔のこと、おばあちゃんのことなど色々わかった。僕のためにもなり、自信もついた。今ではこの文章を書いて本当に良かったと思っている。

学芸会の夢の配達人

 運動会が終わり、秋が近づくと同時に、学芸会も近づいてきた。音楽の道源先生のおすすめで、「夢から覚めた夢」をやることにした。音楽室で、オーディションをやる時、道源先生が、
「夢の配達人の一やりたい人いますか。」
と言ったが、誰も手を挙げなかった。夢の配達人の一は、一番最初に一人で歌を歌う役である。僕は、
(あ~。何かやってみたいなあ。)
と思い、僕はぱっと手をあげた。一人で歌い見事合格したので、僕は夢の配達人の一に決まった。これからが大変だった。道源先生は、
「声が小さい。」
とよく言った。道源先生は、動作など教えてくれた。僕も一人で歌うのは練習でもはずかしく、本番で失敗してしまうんじゃないかと、とても心配になった。学芸会の当日、夢の配達人は黒のブレザーを着た。かなり緊張したけど、僕が出だしなので思い切り大きな声で歌った。もうあれ以上の声は、出ないであろう。大久保君のデビル長官もかなり受けて、みんな笑っていた。マコがお母さんと別れる感動のシーンも成功し、すべてが大成功であった。本当に一生懸命、歌に関しても、演技に関しても《指導してくださり》道源先生には感謝している。

とうとう六年生

 冬も過ぎて、とうとう六年生。最高学年である。そして最後の年である。受験のあるこの六年生。夏の夏期講習は、去年の二倍。朝早くからのソフトボールの練習をやり終えてからすぐである。それが毎日続き、学校の宿題はやる気になんなかった。でも、ソフトボールの練習は、相当がんばり、試合の日、僕はファースト五番で出た。見事立花小は、男女とも優勝した。村上監督のおかげである。

古屋先生への千羽鶴

 後期に委員会では、代表委員になり、しかも委員長になってしまった。最初に行った活動は、古屋先生への贈り物であった。榎さんが、
「色紙や千羽鶴なんかどう。」
と案を出した。結局全校生徒のうたをテープに入れたり、各学年の色紙。六年生は、作文も。鶴は全校生徒みんなにも作ってもらい、それを代表委員会が何回も集まってつなげた。出来たときは、僕も本当に感動した。心臓病で大手術を行い、まだ完全に治っていないらしい。早く元気になるように祈っている。

初の入賞

 今年の冬には、また駅伝大会がある。去年は喘息の発作で出られず、悔しい思いをした。だから今回は燃えていた。その結果、僕のチームは三位になった。3回目の駅伝大会で初入賞した。これも本当にみんなのおかげである。

受験合格

 三学期はもう受験。受験するのは、僕と佐藤君、高野さんに長塚さんの四人である。僕は、2月1日が受験の日で創価中学校一つである。1月31日風邪気味だったので早退した。教室に残っていた友達が、
「がんばれえ。」
と応援してくれた。本当に涙が出そうになった。その時僕は、
(絶対合格してやる。)
と、強く思った。結果見事合格した。《クラスの》四人みんなが合格した。本当にみんなの応援のおかげである。

5人の親友

 「6年を送る会」、「ありがとうの集い」も終わり、もう卒業ムードである。これまでたくさんの友達が出来た。親友というものも出来た。羽田君、中島君、面君、丸山君、田中君である。四年生の時、六年の卒業までいつも一緒にいようと約束した。四年から今まで遊んだ人たちは、この人達が八~九割である。この五人とは、いつも一緒だった。羽田君とは三~四年の頃よくけんかをして、羽田君を泣かしたものである。とても顔がかわいくて、僕的には弟系である。羽田君とは良く昼ご飯を食べた。入院したときでも、大きい風邪を引いたときでも、お見舞いに来てくれた。弟系であるが、いつも羽田君に助けてもらっていた。そばにいると、元気になれた。
 中島君は、本当に優しい人で、みんなの人気者である。決して争うとはせず、いつもほっぺたを赤く染めて笑っている。プールやサッカーがあって、なかなか遊べなかった方かもしれないけど、サッカーもうまくて、足も速くて、何でも出来るスポーツマンである。かわいさは、ナンバーワンである。
 面君は、がんばり屋で、絵もうまくて、手先が器用で、頭も良くて、スポーツも何でも出来て、その上ハンサム=もてる。プールをいつも行っていてこの中では、一番遊べなかった方だけど、こんなに仲良しになれて良かった。図工の時は、良くアイデアをくれて助けてもらった。
 丸山君は、幼稚園からの大親友である。僕が入院したときも、いつもお見舞いに来てくれた優しい人である。バスケットがうまくて、何か言うとすぐ暴力をふってくる。顔は、ジャニーズ系でかっこいい。お父さんの事情で、今年の夏、国分寺の方に引っ越してしまう。本当に残念だが、僕の中学校もすぐそばなので、会いに行ける。
 田中君は、同じ創価学会で少年部員会も一緒に行く仲である。外見無口そうであるが、かなりわんぱく少年である。ゲームなどに関しては良く知っている。良く「オラァ。」と叫ぶ、結構おもしろい人である。中等部でもよろしく。
 こんな仲間達と一緒に、ご飯食べて、映画見て、遅くまで遊んだ。友達と別れるのは、胸がしめつけられるほど寂しい。本当に立花小からも先生からも友達からも、六年間かけがえのない思い出、宝物をもらった。宮崎先生、早坂先生、榎本先生に大切なことを教えてもらった。音楽の道源先生、山口先生。図工の古屋先生、中山先生。事務の人たち、主事の人たち、みどりのおばさん、佐久間先生。そして、校長先生、教頭先生。最後まで僕たちの先生でいてくれてありがとうございました。これだけじゃ全部おさめきれない、この六年間の思い出をありがとうございました。もうすぐ卒業する僕たちをいつまでも忘れられないでください。僕もみんなを忘れません。六年間ありがとう。
 榎さん。本当に日記も詩も新聞の切り抜きも大変でした。漢字も算数も大変でした。でも、本当にありがとうございました。日記も詩も新聞の切り抜き帳も大変だったけど、本当にやって良かったです。先生のおかげで僕もあの文を書くことが出来ました。いつまでも元気な先生でいてください。中学で作文を書くときは、クラスで一番うまく書ける気がします。この自信も榎さんの教えのおかげです。たまに顔を出します。いつまでも関わりを持ってください。 2002年3月11日(火)最後の班日記より
(前半略)
 勉強やスポーツが良くできることも大切だけど、友達はもっと大切。「いつも心の窓を開いておこう!」これはインド独立の父マハトマ・ガンジーの言葉です。どんなときも「心の窓」を広々と開いて、色々な人と交流していこう。学んでいこう。少し難しいけど、ガンジーは、この開かれた大きな心で人間の尊厳のため非暴力の力で戦い続けました。心が一番大切です。
 お父さんもお母さんもいつも考えていることは、どうしたら子ども達が幸福になれるか。と言うことです。そのために一生懸命がんばってきました。そしてわかったことは、自分だけが幸福と言うことはあり得ないということ。周りの人たちが楽しく幸福にならないと、自分も幸福になれないと言うことです。
 一人の人間の可能性は無限です。どうか無名でも良い、平凡でも良いから、人に尽くし、どこまでも挑戦する。真に人間の名に値する人間になってほしい。実は、父も母もそれを目指している。今、途上なのです。
 榎本先生、孝城、昭城と本当にお世話になりました。書くことで、子どもも生きる力を得たと思います。「母の姉は中国に」は、一生忘れられない作文になりました。また、もう一つ忘れられないのは、道源先生にクラスの何人かがしかられた時のことを書いた日記です。あの一文は、息子の成長を教えてくれた出来事として長く記憶にとどめられると思います。先生いつまでもお元気でいてください。先生とは、もっと論争したかったです。また、機会があったらよろしく。長い間ありがとうございました。心から感謝申し上げます。  一番年齢の近い保護者より。 遠藤 昭代

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