子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月21日(火)ありがとうの集い

ありがとうの集い

卒業を祝う会のしめくくりに
 どこの学校でも、卒業前のお祝いの会をするであろう。その締めくくりの文を、次のように語った児童の作品である。紙数の関係で全文は載せられないが、一部を載せる。

「ありがとうの集い」感謝の言葉 田村晴太郎

 ぼくは、1989年に母のふるさと、石川県穴水町にある公立穴水総合病院で産まれました。男の子だったので、東京に残った父と今は亡き父方の祖父は、すごくうれしかったのとのことです。ぼくの名前は、父と母の「晴」という字をとって、「晴太郎」という名前に決まりました。2・3才の頃は良く公園に行って遊びました。特に、今同じクラスの吉澤君と面君とよく遊びましたが、けんかもしたそうです。四才で幼稚園に入園しました。幼稚園は、大きなけがや病気もせず卒園しました。1966年立花小学校へ入学しました。36人だったので、一クラスしかありませんでした。一年の担任の先生は、宮崎二美枝先生でした。先ほどごあいさついただいております。一年の頃は、学校になじめず、幼稚園の頃から仲の良い吉澤君とよく遊びました。宮崎先生は、とてもやさしく子ども思いの良い先生でした。その年に残念なことに奧野将吾君転校して行ってしまいました。二年生も、宮崎先生でした。漢字もやるようになって勉強というふんい気がしました。二年生でも残念なことに、宮園のり子さんと木の下実君が転校していってしまいました。これでまたさびしくなりました。三年生になって、初めての始業式の時には、宮崎先生の姿はありませんでした。その後、堀口校長先生から宮崎先生が違う学校に行ってしまったことを、初めて知らされました。とても残念でたまりませんでした。三年生の担任の先生は、区内の二葉小学校より見えた早坂都々子先生になりました。
 五年生になり榎本豊先生という男の先生になりました。ぼくは、最初こわいイメージがありました。それは半分あたって半分はずれていました。榎本先生は、昔の遊びを良く知っている先生でした。扇君が健康学園へ行った代わりに、江戸川区の小学校から井上潔君が転入してきました。井上君は最初まじめで近寄りがたい感じだったけど、今はみんなイノッチとほとんどの人が呼んでみんなと友達です。宿題のスタイルががらりと変わりました。やっぱり慣れるまで大変時間がかかりました。道源先生の応援のおかげで学芸会の「夢から醒めた夢」は、大成功に終わりました。
 六年生になり、粟野移動教室に行きました。自然に囲まれ二泊三日、その期間、追跡ハイキング、肝試し、キャンプファイヤーと色々なことをやりました。億年間で最高の二泊三日でした。その後には、六年で最後の運動会。白組は女子の長塚さんが応援団長をやってくれました。組み体操は筋肉痛になるほど練習しました。中学校は、小学生みたいに私服でいけないのが残念です。五・六年の二年間文章を書く作文を大切に学んできました。「班日記」「詩のノート」「新聞の切り抜き帳」も大切な学習になりました。六年間たくさん先生方、主事さん方にお世話になりました。先生方には勉強だけでなく、友達を信頼すると言うことを教えていただきました。主事さん方には学校の中の環境を本当に良くしていただきました。
 最後に12年間、私達をここまで苦労して育ててくれたご両親と祖父母の方々、心より感謝しています。私達は今日を含めて、あと12日で立花小を卒業していきます。今年の卒業式のテーマ「夢はぼくらの手の中に」私達30人のメンバーは、立花中23名文化中1名江東区1名神奈川県へ1名私立へ4名、それぞれ新しい夢に向かって出発します。ありがとうございました。

貴重な記録

 今回、このあいさつをしてくれた田村君は、欠席だった。こういう文章を読むと、ああ、そうだったのかと当時のことを色々思い出させてくれる。彼は、今どうしているだろうか。元気に、どこかで活躍してくれているだろう。次回は、ぜひお目にかかりたい。

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