子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月1日(日)林光さんのお別れ会

4月1日(日)林光さんのお別れ会

 一昨日、林光先生の「お別れ会」に参加した。林先生は、昨年の夏の国分一太郎生誕100年記念の研究会に、すてきな公演と演奏会を開いて下さった。その研究会が終わって、3ヶ月経った頃に「林さんが路上を歩いていて、後頭部を強く打って意識不明。」と言う話を山形の村田さんから聞いた。それから4ヶ月近く意識は戻らず、今年の1月の始めに亡くなられた。
 山形から村田民雄さんが見えるというので、夏の研究会の話を話し合いたいので、会が始まる3時間前に会うことにした。有楽町駅改札を出たところで、出迎えた。乙部さん、田中さん、国分真一さんと私の4人で会った。会場近くの喫茶店により、2時間以上を話し込んだ。時間になったので、会場に向かったのだが、すでに100人以上の人々が列を作っていた。会場には入れたのだが、すでにぎっしりであり、立ったまま1時間以上黙祷から参加した。新聞の記事には、次のように書かれていた。
 『1931年東京生まれ。東京芸術大作曲科中退後の53年、「日本の国民音楽の発展に役立つ活動」を目指し、間宮芳生、外山雄三両氏と「山羊の会」を結成。「オーケストラのための変奏曲」で第4回尾高賞を受けた。61年には新藤兼人監督の映画「裸の島」の音楽で、第2回モスクワ映画祭作曲賞を受賞。以後、多くの新藤作品で音楽を担当した。 劇音楽の分野では75年、日本語による歌芝居の上演を続ける「オペラシアターこんにゃく座」の音楽監督(のちに芸術監督)に就任、「セロ弾きのゴーシュ」「森は生きている」「変身」など、多くの創作オペラを残した。
 一方で、社会や政治と音楽のかかわりも追求し続けた。天安門事件後に「第三交響曲〈八月の正午に太陽は…〉」、阪神大震災後には「ビオラ協奏曲〈悲歌〉」を発表。合唱曲「原爆小景」(71年)は20年以上にわたって毎年8月、東京混声合唱団と演奏を続けた。 本紙文化面で約30年にわたって評論を担当。著書に「音楽の学校」など。関係者によると、林さんは昨年9月下旬、自宅前で倒れたときに頭を打ち、病院に運ばれたが、意識不明の重体になっていた。(朝日新聞)』
 国分さんがお元気なときには、日教組の教育研究集会の助言者仲間で、交流があったとご本人が話された。国分さんが亡くなり、『お別れ会』を法政大学で開いたときにそのお話をお聞きした。国分さんにゆかりのある方々が、次々となくなり、寂しい限りだ。

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