子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月9日(土)傘寿と古希のお祝い

5月9日(土)傘寿と古希のお祝い

 蕨高校でお世話になった担任の野崎先生が80才の傘寿の年になられた。1936(昭和9)年生まれなので、厳密に言えば今年81才になられる。昨年やろうと、飯田稔さんから連絡を受けた。昨年の10月過ぎごろだったので、日程的に厳しいので、今年になって、しまった。その頼まれた折に、幹事長を引き受けてくれと依頼されたのであった。半年近くあったので、前回の喜寿(77才)のお祝いの時に、連絡の取れなかった人にも声をかけたいと考え、最新の同窓会名簿を、野崎先生にコピーして頂き、それをもとに、行方のはっきりしなかったメンバー探しを、飯田さんと手分けして探し続けた。その結果、6人くらいの人が見つかり、直接電話で確認してから、案内状を差し上げた。しかしながら、6人の人は、連絡が取れずに、この日を迎えることになった。この不明者の中には、本人のお姉さんと連絡が取れたのだが、現在絶交中ですので、教えられませんという人もいた。また、最後の職場近くまでは、行方がわかったのだが、その先は個人保護法のため、教えられませんという人もいた。この中で、大変残念なことが、1つあった。それは、案内状を出してから、何日か経ち、女性の声で、「田村武の妻です。」という第一声を聞いたときに、もしやという予想が当たってしまった。「2年前の10月2日になくなりました。」という連絡だった。しばし、お悔やみの言葉をかけながら、電話を切った。そういえば、前回のクラス会には、元気に参加してくれていた。ただ、「たくさん病気をしてまして、完全な体ではありませんが、皆さんに会いに来ました。」と言うあいさつをされたことを覚えている。

田村武さんの思い出

 田村武さんは、浜勇さんと、野村供行さんの3人は、陸上クラブの仲良しメンバーだった。私は、この3人の中に加わって、体育祭の400メートルリレーの仲間に入れてもらい、走った覚えがある。もちろんダントツの1位で、クラスを盛り上げた。あの時の、田村君のうれしそうな顔を忘れない。「榎本。よく頑張ってくれたな。」と握手してくれた。いつも髪の毛の手入れなどに気を遣い、人一倍おしゃれであった。謹んでご冥福を願う。

野村供行さんの気遣い

 それと、もう一人の陸上部の勝負師野々村供行さんが、体調が優れず参加できないとのことであった。幹事の藤崎さんや、親友の浜さんなどが電話で誘ってくれたようなのだが、「無理だ。」という返事だったようだ。私は、それを承知で、何日か経ち、野村さんに激励の電話を入れた。私が、透析を初めて、二週間くらいだったので、そのことを伝えると、えらくビックリされて「透析なのに、幹事長かい。ご苦労様。」と、ぼくの体のことをしきりに心配してくれた。電話を切った日から、何日かして、現金書留と、お手紙が添えられていた。中を開けてビックリした。大枚3枚が入っていたのである。私は、今回の住所録と、近況報告が出来上がっていたので、それと私が最近出版することが出来た「作文名人への道」(本の泉社)という本を入れて、彼に送った。クラス会が終わってから、写真などが出来たら、また送るからという手紙も添えた。それと、彼の想いを寄せていた彼女の写真も必ず撮るからと、元気を出させるために書き添えた。 

当日を迎えて

 場所は、川口に可祝(かしく)と言う飲み屋さんで、昼の12時半に集まることにした。当日幹事は、12時集合だったので、私は、11時50分頃、店の前に着いたら、幹事の一人の加藤徳子さんが、待っておられた。すぐに地下に案内して、会計をお願いして、その日に渡すものなどの準備に入った。定刻の12時半近くには、ほとんどのものが参加してくれた。2時間で、打ち切りだったので、会を12時半きっかりに始めた。会の進行をまかされたのであったので、前の日に進行の手順等をパソコンに入れて印刷して準備しておいた。しかし、当日になると、いくつかのことが抜け落ちてしまった。田村武さんのことも含めて、亡くなられた人への黙祷を準備していたのだが、抜け落ちてしまった。乾杯は、一番遠くの山形から見えた田村明男さんにお願いしておいた。野崎先生のあいさつを聞きながら、我々も楽しかったけど、先生も結構楽しかったんじゃないかと聞いていた。80才を超す年には見えない。いつもモデルを観察しているから、先生若々しいんだと横やりを入れる人がいた。

近況報告は、難しい

 その後は、恒例の近況報告にうつった。そのはなしのなかに、高校時代の思い出等を入れて下さると、ありがたいと、お願いした。近況報告になると、近くの人と話が盛り上がり、話を聞いてくれない人がいると、事前に飯田さんと心配していた。せっかく久しぶりに来て下さっているのだから、それが最低限のマナーなのだが、若干話が散漫になるときがあった。話し手の声が小さいとなおさらその心配が膨らむ。しかし、何人かの人の話は、みんな吸い込まれるように静かに聞いている場面も結構あった。話し手の第一声が大事だなと思いながら聞いていた。

二次会は、カラオケ館

 近況報告が終わる頃は、定刻の15分くらい前であった。時間切れにならず、ホッとして聞いていた。最後のお礼の気持ちを先生に差し上げて、全員の集合写真を数枚撮って、会を閉じた。二次会は、近くの「カラオケ館」を予約しておいたので、そちらにまわった。先生を含めて、26人の参加者だったが、二次会には、ほとんどのメンバーがきてくれて、会が大いに盛り上がった。こちらがお願いもしないが、高野幸治さんは、勝手に名乗り出て司会進行をして、盛り上げてくれた。ゆっくり話をしたい人もいるので、カラオケが続くと、それだけで終わってしまうのもちょっと気になった。しかも、マイクを離さないという感じの人が、何人かいて、一度も歌ってない人に回してほしいなという気分にもなった。こういうときの進行は、本当に難しいものだ。2時間の予定一杯、そこを使い切った。

最後の精算

 会が終わり、流れ解散になり、幹事の人が残り、会計などの精算をして、会を閉じることが出来た。今回、野村さんの大枚3枚を友好に使い、二次会の金は、全部会費の金で、十分間に合った。あとは、写真が出来たら、どのようにして渡そうかと、考えている。私のホームページにそれを載せて、皆さんに見てほしいと伝えれば、郵送費はかからず、幹事としても、助かる。今、検討中である。


参加者の集合写真


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