子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

7月2日(木)N君からの聞き書き

7月2日(木)N君からの聞き書き

 N君の母親が亡くなり、葬式に参加した。母がなくなり、子1人になり、様々な事情で、無事葬式も終わった。霊前の受付も、骨を焼いているときのお清めもなかった。焼き終えたあとに、骨壺にお骨を2人ずつで入れた。参加者が8人だったので、4回で終わった。すべてが終わり、喪主のN君の挨拶を促された。「どうもありがとうございました。」のひとことで終えた。それで終わってしまった。翌日彼と会い、何とか気持ちを伝えたいので、お金はないかも知れないけど、やはり手紙を添えて、参加した皆さんに感謝の気持ちを伝えた方が良いと伝えた。そこで、N君の母との思い出などをいくつか聞き書きをした。それを作文にした。久しぶりの聞き書きを自分でやってみた。

母のお葬式に来て下さった皆さんへのお礼の言葉

 父が3年前、2012年2月22日に、『肺炎』でなくなりました。それ以来、母とぼくの2人暮らしでした。父が亡くなる2年ほど前に、母は、『大動脈瘤』の病気で、大手術をしました。大変危険な病気でしたが、母の生きる力で、何とか奇跡的に回復しました。しかし、その後は、あまり自由に体を動かすことは出来なくなりました。お使いなど、家事一切を、ぼくが負担するようになっていきました。
 母は、2015年6月15日に、行きつけの病院で『膵臓がん』と言うことがわかりました。その病院から、「大宮の日赤病院』に緊急入院しました。すでに手遅れで、他の内臓に転移しておりました。入院したての頃は、意識もはっきりとして、話も普通にしておりました。しかし、かなり痛がっておりましたので、医者と相談して、『モルヒネ』という強いクスリを体に入れて、痛みを止めてもらうことにしました。医者には、「あと一週間持つかどうかの段階です。覚悟しておいて下さい。」と言われました。入院してから12日目の6月26日、病院から、『血圧が下がり、もう危ないので、すぐに病院に来てほしい。』と連絡がありました。一人で行くのは心細いので、池袋第三小学校で、1・2年の担任だった、榎本豊先生に連絡を取り、2人で病院に駆けつけました。榎本先生とは、ずっと音信不通でしたが、2年ほど前に、母が昔の資料の中から先生の電話番号を見つけて、30年ぶりくらいに電話がつながりました。母が、元気なときには、ぼくの家に来ていただき、久しぶりの再会があり、母も感動してました。その後、ぼくが勤めている昼間には、時々先生の所に電話して、交流を深めていたようです。あとから先生に聞くと、ぼくが池袋第三小学校に行っているときに、ぼくの家は、池袋の西口で、『横綱』というラーメン屋を開いていました。お店も繁盛して、父と一緒に、元気に店を切り盛りしておりました。母のすぐ下の弟(ぼくの叔父さん)も、店の手伝いをしてくれていました。また、母は、池袋第三小学校のPTAのバレーボールにも所属して、スポーツを楽しんでおりました。母のポジションは、前衛のアタッカーをしていました。そのとき、榎本先生は、そのバレーボールの監督をしていました。母が、一番輝いていた頃でした。
 ベットに横たわっていた母に、『榎本先生が来たよ。』と耳元で、声をかけると、少し頷いたように見えました。よく見ると、目の所に涙が、少したれているように見えました。先生が来てくれたことが伝わったに違いありません。目は開けているのですが、意識はほとんどありませんでした。夜の8時過ぎに着いたのですが、2時間くらいそこに先生と一緒におりました。看護師さんと担当の先生が途中で見えました。『もう、覚悟は、しておいて下さい。』と、ぼくに念を押しました。血圧が、少し落ち着いたので、そこにずっといても、自分の体が持たないので、看護師さんと相談をして、『何かあったら、夜中でも連絡下さい。』とお願いをして、先生と一緒に家に帰ることにしました。先生の車で、浦和の駅まで送ってもらい、家に帰りました。次の日、朝、また病院に出かけました。しかし、容体は、どんどん悪くなり、血圧もどんどん落ちて、とうとう母の息が途切れました。なくなった時刻は、6月26日(金)午後1時55分でした。父の臨終の時には、仕事で、その場に間に合わなかったのですが、母の時には、ぼく一人ですが、そばにより添えました。大好きだったぼくの母との永遠の別れでした。
 ぼくは、安定した仕事に就いていないので、経済的にも不安定です。母の年金と、ぼくのわずかな給料では、普通の暮らしが出来ないので、『生活保護』を申請して、暮らしてきました。
 そんなわけで、お葬式の時にも、誰とも相談できなくて、あのようなあいさつきりきり出来なくて、皆さんには大変失礼な振る舞いをしてしまいました。あとから、奈良に住んでいる従兄弟にそのことを話すと、えらく叱られてしまいました。葬式が終わってから、2日後、再び榎本先生に連絡を取り、さいたま市役所に車で行ってもらい、『死亡届』や『年金の終了手続き』などの事務的な仕事を終えてきました。まだ、完了したわけではありません。母の本籍が、長野市にあるので、そこへ連絡を取り、戸籍謄本を送ってもらわなければなりません。そんなもろもろの仕事が残っております。また、母の生活保護が切れてしまうので、今度は、ぼく一人の生活保護を申請してきました。結果がわかるのが、一週間くらいでわかります。その日は、郵便局に行ったり、年金事務所に行ったりと、終わったのは、3時近かったです。家に帰る途中に、夕飯の材料を買い、家で一人で作って食べました。母がいなくなったんだなと言うのは、こういうときに感じます。でも、これから、一人で生きていかなくてはなりません。いたらないぼくですが、皆さんにご迷惑をかけないように、これから、しっかり生きていきます。
 母が元気だった頃の最後の職場のS・K様、母の弟(ぼくの叔父さん)のK・H様、母の弟の奥さん(ぼくの叔母さん)のI・E様、I様の2人のお嬢様(ぼくの従姉妹)のY・E様とI・S様、父の弟の息子さんのN・Y様、小学校時代の恩師榎本豊様、皆様遠いところからわざわざ来てくれました。母も、大変喜んでいるに違いありません。ぼくも、本当に、うれしかったです。
 本日、お葬式のお礼にかえて、わずかばかりのぼくの気持ちを、お送りします。これから、一人で生きていきますが、心細いところもあります。これからは、今まで以上に元気に仕事に打ち込み、少しでも安定した暮らしにしたいと考えております。再び皆さんとお目にかかれる日を楽しみにしております。
2015年7月吉日 N・K

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