子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

7月27日(月)母との別れ

7月27日(月)母との別れ

 山形の研究会を終えて、20日(月)に帰ってきた。次の日は、お疲れ休みで、家にいることにした。お天気も良すぎて、外に出るのも、気が引けた。ただ、母のところへ、顔を出そうかなと少しばかり考えたのだが、結局行かなかった。その日の夕食後、老人ホームから電話が鳴った。所長さんからの声だった。「今、お母さんが、心臓が止まっている状態です。すぐに来られますか。」という電話であった。妻と娘が、日帰り温泉の旅からちょうど帰ってきたときだった。すぐに、3人で駆けつけた。部屋に入ると、心臓蘇生装置を付けながら、必死に所長さんが、刺激を与えているところであった。「これ以上やると、あばら骨が骨折するので、もう限界です。」と看護師さんが、私にささやいた。「もう結構です。」と止めてもらい、すぐに医者を呼んでもらった。医者が、見えて、目を開き、瞳孔を調べ、心臓も停止していることを確かめて、「ご臨終です。」と告げられた。母の体を触ってみると、すでに冷たくなっていた。医者に死亡診断書を作ってもらい、その日のうちに「川口のセレモニー」に連絡を取り、母を引き取りに来てもらった。セレモニーに加入したのは、昨年の6月であった。加入するときに、1年間経つと、割引が、たくさん出来ますが、1年未満だと、それほどでもありませんと言われていた。母は、山形に出かける前に、「良く続くね。行ってらっしゃい。」と私に笑いながら、言ってくれた。そんなことを考えると、母は、すべてを、見通して、山形から帰ってきた次の日を、命日と考えていたのかなと思ってしまう。山形に行っているときに、連絡が入ったら、どうにも動けなかったかも知れない。自分の亡くなるタイミングを、ずっと考えていたのかも知れない。お通夜の席には、たくさんの人たちが、母に会いに来てくれた。その中で、毎年クラス会をしてくれている、私と同じ年の北浦和小学校時代の教え子の一人である石田さんが、私に耳打ちしてくれた。今年は、6月にクラス会をしたので、「何人かで、榎本先生のところへ顔を出そう。」と決めていたそうだ。その日が、7月22日(水)ということを決めていたそうだ。「あと、2,3日早かったら、先生に会えたのにね。」と言うことを聞いて、ビックリした。母は、あと、9日間生きていれば、95才になる誕生日を迎えられたのだが、その前に、なくなった。りっぱな大往生であった。お母さん、長いこと本当にご苦労様でした。告別式で、皆さんにあいさつをした。

喪主の挨拶

 本日は、お忙しいところ母・榎本稲子の葬儀に多数参列していただき、ありがとうございました。私は、長男の豊でございます。ひとこと、ご挨拶申し上げます。
 母稲子は、1920(大正9)年に東京の港区で生まれました。1941(昭和16)年太平洋戦争開始の年に埼玉女子師範学校を卒業し、教職の道に入りました。その後結婚し、我々2人の子どもを育てるために退職しました。戦後、何年か経ち我々2人の子どもたちを育てるために、再び教職の道に入りました。戦後の大変な時期に、母は、必死に働きました。祖母や母の妹や弟たちと一緒に暮らしていました。狭いながらも楽しい我が家でした。その間、母は、「教え子を戦場に送るな」というスローガンに共感し、日教組の運動にも関わりました。私が小学生の時には、浦和市教組の執行部に加わり、帰りは、いつも遅い毎日でした。1957年の「学力テスト」反対闘争の時には、家に帰らず、そのまま職場に行ったということもありました。また、家庭科教育にも力を入れて、家庭科教育者連盟に加わり、教育実践にも力を入れ、日教組の全国教研にも何度か出かけました。埼玉で、家庭科教育者連盟の全国大会が、婦人会館で行われたときが、母の輝いていた時でした。60才で定年満期を迎え、その後5年間公民館の副館長の職をまかされて、そこでも、充実した毎日でした。完全退職してからも、海外旅行にも、家庭科教育者連盟のお仲間と一緒に何度か出かけました。
 その後、ずっと1人住まいでした。今から8年前の2008年3月より、家の近くの「まどか中浦和」の老人ホームで、お世話になるようになりました。そこでの暮らしも、たくさんの友だちに恵まれました。新聞を読むのが日課になり、半日近くは、新聞の切り抜きなどを楽しんでおりました。パソコンのゲームを教えると、夜遅くまでやっていて、施設の方に注意されたりもしました。4年ほど前に大腿部骨折をしてからは、車椅子の生活になりました。大部体も衰えましたが、ホームの方々の献身的なお世話によって、心も体も何とか持ちこたえてきました。その間、認知度が、少しずつ進みましたが、会話は何とか成立しました。ここ1年間は、ベットで横になることが多くなりました。4週間ほど前に、肺炎をこじらせて、緊急入院をしました。もう、このまま病院生活になるのかなと、心配しました。幸い元気を取り戻し、退院することが出来ました。酸素吸入の管を、鼻から入れていたのですが、それも外し、補聴器もなくても、声も聞き取れるようになって、元気を取り戻していました。
 7月21日(火)夕食後しばらくたって、トイレに行きたいということで、用を済ませた後に、意識がなくなり、心臓が止まってしまったようです。連絡を受けてから、1時間後に、家族で駆けつけると、心臓蘇生を献身的にやっている最中でした。もうこれ以上をしても無理だろうと言うことで、医者を呼び、臨終ということを告げられました。 21日の午後8時52分でした。寝たきりにならず、苦しむこともなく人生の扉を閉めました。実に見事な旅立ちでした。母は、あと、9日ほどで、95才になるところでした。長い間、母と関わって下さった皆さんに、心より感謝申し上げます。本日は、ありがとうございました。
2015年7月26日 喪主 榎本 豊

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