子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月9日(日)教科書から作文の文字が消えたのは・その2

9月9日(日)教科書から作文の文字が消えたのは・その2

教科書では、どのように『書くこと』が、展開されているか
教科書にも、単元としてほとんどなし。
 何かのために書く    
作文(手紙文・招待文・想像作文など、ジャンル別表示。)
 作文で最も重要なことは、『何を』(題材)書くかを、自分で選ばせることである。
①自然や社会や人間の事物から、ある意味や美をとらえさせる。
②自然や社会や人間の事物、対象をとらえるときの子供自身の観察の仕方・表象のしか た・思考のしかた・想像のしかたとその能力(認識力)をのばしていく。
 しかし、この大事なことを、『えらばせない』『えらぶことをしない』人間にさせられている。それが今の教科書である。題材が、初めから決められていて、それにそって書かせられている。このほかに、『虚構作文』『フィクション作文』『想像作文』というデタラメ作文も、「えらばせること」を軽視するものである。
『現代つづりかたの伝統と創造』(百合出版・国分一太郎)

わたしの教えた子の日記文から

ドライアイスでじっけんをしたこと 墨田区立堤小 2年 男子

 母といっしょにかいものをした時に、レジのところで、
「ドライアイスのコインください。」
と母が言いました。そのコインを、ドライアイスの入っている入れ物に入れました。すると、ふくろに入ったドライアイスが出てきました。
ぼくは、おふろばでドライアイスのじっけんをすることにしました。
 さいしょにドライアイスをせんめんきに入れて、水をかけました。すると、白いけむりが出て、ちょっとずつとけていきました。つぎは、シャワーのおゆをかけてみました。そうすると、ぶくぶくとあわがさっきよりたちました。このとき、ママがおふろばをのぞきに来て、
「おんどをかえてみたら。」
と言って出て行きました。
 そう言われたので、ぼくはさいごに、ドライアイスをゆぶねの中に入れてみることにしました。すると、ジュワーっと音を立ててとけていきました。手でさわってみてもへいきでした。ぼくは、
(おんどでとけかたがかわるなんて、おもしろいなあ。)
と思いました。
 今どは、虫の体をしらべてみたいです。
☆この作品には、自分でこの題材をえらんだ所に値打ちがある。母親の何気ない会話も意味がある。自分で働きかけているところに意味がある。小学校2年生で、科学的なことに興味を持っている芽生えが出てきている。今度は、虫の体にもと、次の課題も考えている。

いもむしみたいな変な虫  墨田区立立花小  3年 女子

 十月三十日学校の帰り道わたしは、友達の小川くんとしゅうとくんで帰っているとちゅう、公園の前の所でなんか虫がいました。それは、いもむしみたいな緑色の虫がいました。しゅうとくんが
「なんだこれ。」
と言いました。わたしも、
「なんだこれ。」
と言いました。小川くんが
「なんかぼうないかな、ないかなぁ。」
と言いました。石がいっぱいあった所のけっこう大きな石をつかいました。その虫に小川くんが石をなげました。けれど、動きませんでした。また、ぼうをさがしました。そしたら、しの原くんが、
「ねぇ、小川くん!これを使ってみたらぁ」
と言いました。わたしは、
(ぐっすりすやすやこのいも虫みたいなやつ、ねてるんじゃないかなぁ。)
と思いました。小川くんがそのストローをなげました。やっぱり当たりませんでした。小川くんがしの原くんに、
「ねぇ、じゃあしゅうとくんがやってみてよう。」
と言いました。しゅうとくんがそのいもむしみたいな虫をつついてみました。しゅうとくんが
「かた~い。」
と言いました。わらいながらみんなで帰りました。わたしは、
(でもあれって虫なのかなぁ、それとも虫じゃないのかなぁ、ほんとうにあれってなんだろう。)
と思いました。
(なんだか気になって今日は、いも虫のゆめを見そうだなぁ。)
と思いました。でもちょとおもしろかったです。あともう一つ知りたいことは、何で動かないし、あんな所にいるかふしぎでした。
(あれって虫だったらさなぎになって、ちょうちょになるんだなぁ、どんなちょうなんだろう。)
と思いました。
☆学校の帰り道に、友だちいっしょに歩いていて、へんな虫に出会ったことを、ていねいに思い出して書いているところが、値打ちものです。虫を遠くからながめているのでなく、近寄って、ぼうでさわっているところが、なかなか良いです。学校の帰り道に、こんな道草は、大いにけっこうです。

戦争は許せないと強く思った日  墨田区立堤小学校  六年 女子

 今日は、2月26日の火曜日。1時間目から4時間目までは、いつも通りに授業をやった。でも、5時間目は、いつもとはちがう。なぜかというと、今日は、平和集会があるからだ。平和集会とは、戦争を体験した人の話を聞く集会だ。低学年と、高学年に分かれ、低学年は、午前中、高学年は、午後にやった。場所は、ランチルーム。私たち高学年は、5時間目だったので、昼休み終わりのチャイムが鳴ると同時に、ランチルームの前にいなければならなかったので、昼休みは、早めに切り上げ、急いでランチルームに向かった。ランチルームに4列並びで入った。4,5,6年生全員が集まると、松井先生が前に出てきて、
「これから平和集会をします。」
と言った。松井先生の話もあったが、正直聞いていなかった。なぜかというと、早く今日話して下さる福田稔さんの方を聞きたかったからだ。松井先生の次に話した校長先生の話も、やはり少ししか頭に入っていかなかった。校長先生の話が終わり、福田さんの話が始まろうとしていた。福田さんの立っている後に、ホワイトボードがあった。そこに、今日福田さんの話す題と福田さんの名前が書かれていた。題を見ると、「信ちゃん」と書かれていた。私は、
(信ちゃんってだれだろう。福田さんの下の名前って、稔さんって言うんだよね・・・。 何でだろう。)
と思った。考えている内に、話が始まった。福田さんは、当時十六才で、戦争の終わった頃の話をしてくれた。その出来事は、今から六十二年前のことだった。十六才の福田さんは、朝から晩まで仕事をし、毎晩上野駅の地下で寝ていた。いつものように仕事を終え、駅の地下へ行くと、いつもは寝られるはずなのに、その日は、寝ている人がいっぱいで福田さんの寝られる場所がなかった。しょうがないので、上野駅から浅草まで歩き、今で言う「花屋敷」の遊園地の近くの東本願寺というお寺にたどり着いた。戦争後なので、寝る場所があるわけでもなく、縁の下でねたのだ。寝ていると、なぜだか、腹の上が重い気がして、見てみると、小さな男の子が足を乗っけていたのだ。かわいそうで、足をどけるわけでもなく、じっとがまんをしていたのだ。そんな福田さんを私は、
(すごいなあ。)
と尊敬した。福田さんは、その少年に、モク拾いというので得たたった一本のイモを、渡したのだ。モク拾いとは、タバコを拾う仕事だ。少年は、受け取るわけでなく、うばいとるようにしてそのイモを食べたのだった。その少年が、信ちゃんという名のようだった。その信ちゃんは、お父さんとお母さんを戦争でなくして、一人ぼっちでいたのだ。信ちゃんは、当時八才。ここから、信ちゃんと福田さんが、別れるまでの話が始まった。最初は二人だったが、これから四人の人たちが加わる。合計六人なので、くつみがきの仕事もすることになった。生活は苦しいが、親切な人たちに出会い、幸せに暮らしていた。しかし、ある時、役所の人が、信ちゃんを引き取りに来た。仕方がないので、信ちゃんを施設に預けた。
 ある時、役所の人が再び福田さんのもとに現れた。信ちゃんが、養子になると言うのだ。そこで、福田さんは、一つの約束をさせられた。もう二度と、信ちゃんとは、会わないということだ。福田さんにとって、信ちゃんと別れるのも、もう会えないのも。つらかったと思う。なのに。この信ちゃんの話をするのは、すごいと思った。私が心に残った言葉は、福田さんの言った「約束は、口で言ったり、紙に書いたりするのは簡単だけど、守らなければ意味がない。」という言葉と、福田さんが最初に言った、「戦争は、もう二度と起こしてはいけない。」という言葉だ。今日は、人生で一番戦争は、許せないと思った日だ。きっとこの先も、こんなに強く戦争は、許せないと思うことはないだろう。

平和教育こそ今こそ大事に

 平和教育をする人が次第に少なくなってきた。戦争体験を語る人が少なくなってきたことも大きい。平和の教育の大切さを意識する教師も少なくなってきた。戦争は、多くの人々を不幸にする。そういう教育を学校ぐるみでやれる職場にいたので、1年に1回は、必ずこのように子どもたちと向き合って考えることが出来た。
☆今の教科書からは、このような作品は、絶対出てこない。それは、やがて、子どもたちに、世の中の矛盾や問題点を、自分の頭で考え、『おかしいことはおかしい』という子どもたちが育たないようにしているのである。権力者に都合の良い子ども(やがて大人)に育てていきたいのである。今の若い人たちが、意外に保守的な考えを持つ人々が多い。教科書から、『作文』という文字が消え、『事実をありのままに書く』作文教育が、出来なくなっている現状を大変憂えている。
 権力者は、生活綴方(生活作文)を巧妙な手口を使い、学習指導要領から消し去り、あらかじめ決められた題材で書く、学習作文のようなことをやらせて、子どもたちから、本当に賢くなる『ものの見方・考え方』の元になる、えらぶ権利を、奪ってしまったのである。

かっての教科書

 かって、国語の教科書の編集部には、光村をのぞいて、日本作文の常任委員が入り、すぐれた作文単元を、5月と10月に全国の子どもたちが、必ず自分の生活を見つめながら、作文へ力を注いできたのである。
 90年代までは、良心的な小さな教科書会社も生き残っていた。その1ばん良い例が、日本書籍(日書)という会社である。その会社はすぐれた教科書として、国語と社会科を出版していた。

マスコミの勉強不足

 特に痛手になったのが、社会科の教科書の中味に『忠魂碑』と言う言葉が出てきた。
 その言葉が出てきたときに多くのマスコミは、『ついに登場、歴史教科書に忠魂碑』というキャンペーンを張ってしまったのである。天下の朝日新聞もその中にいた。私達墨田区では、その教科書を長らく採択していた。
 私達は、マスコミが言うように、果たしてそのような本なのかとその教科書の忠魂碑の所を扱ったところを学習した。それを読んで驚いた。編集者は、その忠魂碑が、自分たちのくらしの身近なところに結構残っていることに目を付け、学習の出発点としたのであった。戦争で亡くなった人の関係者に会いに行き、どんな思いでそこに名前を刻んだのか。そこには、様々な考えの人々がいた。共通していることは、戦争で命を落としたことは、大変くやしい残念なことである。せめて、名前くらいは、残しておいてほしいという思いの人に出会う。そこから、歴史の勉強の出発点として、あえて『忠魂碑』から出発したのである。そこの所を、丁寧に読まないで、それをしてしまった。新聞の一面に大きな見出しで、それを書いてしまったのである。新聞記者の勉強不足である。日書は、それから採択数をどんどん減らし教科書の出版をやめてしまった。

またしても悪魔の登場

 わずかに残ったのは、国語のみだった。最も良心的な教科書会社であるその証拠に、当時東京の中で、採択数の最も多かったのは、その日書だったのである。しかしながらここでも大きな悪魔が入り込んできた。それは、なぜ、東京の中で日書が一番採択数が多かったかというと、東京方式といって最も民主的に教科書がえらばれていたからである。その採択方式を、大きく変えられ、各学校の意見より、えらばれた採択審議委員の力を重要視した。それによって、日書の国語教科書も採択数を大幅に減らし、ついに出版から退いて行ってしまった。
 唯一作文単元のすぐれてた教育出版(初代社長、小坂佐久馬は、北海道綴方教育連盟弾圧のときに逮捕され、4年間くらい牢獄つながれていた)の編集委員をしていた我が友人の田中定幸(当時日本作文会の副委員長)も、教科書会社が、少しずつ変質しているのを知り、自ら辞めていった。

『作文名人への道』の出版

 そこで、少しでも、現場の人たちが、教科書に縛られながらも、作文というすばらしい方法が実践できるように作った本が、この本である。現在、高学年と中学年の本が出来上がっている。ぜひ、読んでいただきたい本なのである。

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