子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月12日(木)豊島作文の会の提案その4

1月12日(木)豊島作文の会の提案その4

生活保護・準要保護が七割

 定年退職後、再任用(3年間)と再雇用(2年間)の5年間勤めた職場は、生活保護・準要保護の児童が7割もいた。同じ区内に、こんなにも厳しい子どもたちがいることは、初めて知ることになる。朝遅刻してくる児童が、学年に1~2名は必ずいた。担任は、朝の出欠席をとると、必ず職員室におりてきて、休みの児童の家に電話をする。親は、でないで本人が出てくる。すぐに学校へ来るように、言って電話を切る。学校のすぐ近くが、都営住宅なので、養護教諭が迎えに行くと、パジャマ姿で起きてくる。着替えさせて、そのまま学校の来させ、職員室で、簡単な食事をさせて、教室に行かせる。
 給食費を払えない児童が何人かいた。生活保護・準要保護の経費の中に、給食費の費用が含まれているのだが、親はそれを生活費の方に回してしまうために、給食費がいつも足りなかった。しかし、3月になると、必ずまとめて、払われる。なぜなら、払わなければ、次の年に生活保護・準要保護が受けられなるからだ。中には、払わないまま卒業してしまう児童もいた。
 都営住宅なので、シングルマザー家庭や中国残留孤児2世・3世の児童がかなりいた。
休み時間になると、中国語の会話がよく聞こえてきた。

中国から日本に来た 六年 男子 D ・ R

 私は、四年前に中国の福建省から日本に来ました。学校は、堤小学校の二年生に入りました。その時、日本語がぜんぜんわかりませんでした。みんなが何を言っているかぜんぜんわからなくて、とってもこまりました。
 この学校に入ったときは、九月ぐらいに入りました。それで、二年生が終わったら、三年生になりました。三年の時は、心にきずがいっぱいありました。その時日本語が、少しわかってきたので、一人、二人ぐらいの人のわる口が聞こえてきました。
「中国に帰れよ。」
と言われました。その時の心の中は、とってもおこりたい気持ちになっていました。クラスのみんなが話している日本語の意味がわかります。でも、自分が日本語がしゃべれないので、おころうとしてもおこれないのです。ほんとうにくやしかったです。
 その時、日本語が話せないので、友だちもぜんぜんいませんでした。その時は、本当にさびしかったです。やがて、四年生になり日本語が話せるようになりました。友だちも二,三人ぐらいできました。その友だちが、二十分休みの時、あそびにさそってくれました。その時は、ちょっと楽しかったです。それでだんだん、友だちがふえていきました。言葉が、だんだんわかっていくうちに、友だちふえてきました。三年生と比べては、四年生の方が、楽しかったです。
 五年生になって、日本語がさらに、だんだんじょうずになってきたので、帰るときもあそびにさそってくれたこともありました。その時は、本当にうれしかったです。日本語を話すのも、自然に多くなりました。あわの移動教室の時も、班のなかまに、入れてくれて、楽しい思い出になりました。
 六年生になって、最高学年として、低学年のめんどうを見ることになりました。
 自分の日本語も上手になりました。教室のみんなもとても仲良しになりました。私にとっては、日本語が上手になって、友だちがたくさんふえました。
 日本語が上手になったのは、日本語教室の先生たちが、教えてくれたからです。かすがい先生や岩田先生やりゅう先生に教わりました。
 私は、日本に来て、四年目になりました。私のあとに、王孝?さんの姉弟がきました。私は、王孝?さんに、中国語で話しかけました。王孝?さんも話しかけてくれました。私も四年前に、日本語がぜんぜんわからないときに、すでに日本に来ていた郭さんに、中国語で話をかけられました。私は、その時、ほっとしたことを思い出しました。おそらく王孝?もほっとしたにちがいないです。
 私は、中学生になっても、友達をたくさん作って、日本語がもっと、じょうずになりたいと思っています。

 このことが一つのきっかけになり、「人権集会」を12月の人権週間にあわせて、教育課程に位置づけて、毎年行うことになった。

ぼくの母は、卒業式には来ない  六年  男子  

 僕は、今、父と姉二人の四人暮らしです。でも前は、父ではなく、母と四人で暮らしていました。 僕は、母の知り合いの家に泊まっていました。 そのとき、僕はまだ、五才でした。 遊んで疲れたのか、母のヒザで、寝てしまいました。 少したち、僕が、起きて前を、見ると、 変なおじさんがいました。僕は、母に、
「この、おじさんだれ。」      
と聞きました。母は、
「Kのパパだよ。」
と、いきなり、言われたので、僕は、ビックリしました。
約束が破られてしまった
 それから、次の日、僕は、父と母と姉二人の五人家族にもどって、暮らすことになりました。でも、僕は、
(うれしいけど、お父さんって呼びずらいなあ。)
と思いました。
 数日後、久しぶりに家族で、食べに行く予定になっていました。
 次の日の夜、父は、約束の時間には、帰って来ませんでした。でも、それは、しょうがない事なのです。父は本当は、帰って来たいけど、仕事が忙しいから帰って来れませんでした。母が、怒って、
「出ていく。」
と言って、お金とカードを置いて出ていこうとしました。僕は、
「出ていかないでよう。」
と泣きながら言いました。でも、母は、
「ダメ」
と言われました。僕は、
「だったら、おれも、連れてってよ。」
と言ったけれど、母は、
「ダメ」
と言ってそのまま、出ていってしまいました。僕は、父が、帰って来るまで、ずっと、家で泣いていました。姉二人は、だまって、ぼくといっしょにいてくれました。

保育園の卒業式

 僕は、保育園の卒業式は、
「来るかなあ、来るかなあ。」 
と、母が来ることを、ずっと思ってました。でも、母は来ませんでした。その代わり、父が卒業を祝って、来てくれました。
堤小への入学
 一年生の、入学式にも、母は来ませんでした。その代わり、父がまた来てくれました。その時に、僕は、
「もしかして、鹿児島に帰ったのかな。」
と思いました。母のふるさとは、鹿児島県なのです。父も、同じ鹿児島県出身です。
「もう、一生会えないのかな。」
と思いました。でも、会えるチャンスが来ました。

鹿児島行きの話し合い

 夏休みにはいる少し前に、父が、いきなり僕に向かって、
「お姉ちゃんたち、呼んできて。」
と言いました。僕は、二人の姉の部屋に行き、父がいるところへ連れていきました。父が、
「鹿児島に帰る。」
と、みんなに言いました。僕は、
(もしかしたら、お母さんに会えるかもしれない。)
と思いました。だから僕は、
「行く。」
とすぐに返事をしました。二人の姉は、予定があるかわからないので、すぐには返事はしませんでした。
 それから、何日かして、この鹿児島行きは、実現することになりました。

久しぶりの鹿児島県への旅行

 父は、鹿児島に住んでいる母の妹に、ちょくちょくメールをしていました。僕からみると、おばさんに当たります。いよいよ六年生の夏休み、家族みんなで、鹿児島に旅行に行くことになりました。僕は、
(よっしゃあ、やっとお母さんに会える。)
と思いました。僕の、心の中で、はしゃいでいました。
 ぼくたち家族は、飛行機で羽田から、鹿児島空港に行きました。着いてからは、レンタカーを借りて、とまるホテルまで行きました。
(いよいよ、お母さんに会える。)
と思うと、心がドキドキしてきました。しかし、母の妹は、母とケンカをしていました。理由は、はっきりしていませんが、母とは、会えませんでした。
僕は、とてもがっかりしました。

あと四か月で卒業式

(じゃあ、小学校の卒業式にも、来ないのかなあ。)
とずっと悲しい気持ちに、なりながら帰りました。今では、母の事は、忘れて、楽しく暮らしています。母より、父の方が、僕や、姉二人を、大事に育てています。大事な家族です。でも、母との思い出や家族五人でいた、思い出を、いつまでも忘れたくは、ありません。でも時々、ほんとに、母に会いたいです。
 学校の生活は、父も母も知りません。父には、時々言いますが、母にも、知ってもらいたいです。でも、心の底では、また、五人で暮らしたいです。それが、かなったら、もっと、楽しい生活になるでしょう。

 人権集会では、学年一編を代表にして、全学年読んでもらうことにした。読んだ後に、担任が、なぜこの作品を取り上げたのかを、全校の前で発表した。朝会は、落ち着かない子が何人かいたのだが、この人権集会は、みんな静かに聞いていた。それだけ、友だちの文章には、関心があり、心が揺さぶられたのであろう。

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