子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月28日(土)今となっては

1月28日(土)今となっては

母が初めて語ったこと

 1948年1月に離婚した。今野幸正という人だった。榎本家の親戚の人にお金を借り、それが原因だった。私は、もう少し、続けようとも思っていたが、私の母(榎本志満)が許さなかった。母にとっては、我慢できなかったのだろう。
 離婚をして、実家に戻ってきたある日のことだ。これからどう生きていこうかと悩んでいたときに、とんでもないことを考えていた。しかし、そのことは、豊さんのひとことで、我に返ってやめた。つまり、まだ寝返りも出来ない弟の宏をおぶって、3才にもなっていない豊さんの手を引いて、暗い夜道を歩いていた。、今はなくなったかも知れない大宮と与野駅の間にある「欄干橋」(らんかんばし)の近くを歩いていた。その下は、鉄道が通っている。そのとき、「お母ちゃん、お星様がきれいだね。」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」。
 そんなことがあったのかと、その話をしみじみと聞いた。その後、2度としなかった。

3才以前の記憶

 父親の思い出が1つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、小さい頃は、「お父ちゃんは、なくなった。」と、志満おばあちゃんから何度も言われていた。ところが、私の目の前に、現れたのであった。「ごめんください。」と言う声で、よちよち歩きの私が、玄関に歩いていくと、懐かしい父が立っていたのである。私は、うれしくて、「お父ちゃんだ。」と言って跳びはねた。こたつのあった部屋に戻り、母に伝えに行った。母が私をだっこして、父にだっこさせたのを覚えている。そのことを、家にいなかった志満おばあちゃんに話すと、「それは幽霊だよ。」と言って、相手にしてくれなかった。ずいぶん経った頃に、このときの話をすると、父は、離婚が決まってしまったので、最後の別れに私の顔を見に来たのだということを、教えてもらった。なお、父親は、私が、高校3年の頃、なくなった言うことを、父の兄の子どもの輝彦さんが、夜、伝えに来たのを覚えている。生きているときに、1度会ってみたかった気もする。

祖母の相続

 母が亡くなる前に、母からいくつかの母に関する歴史を聞いていた。母の1周忌の日に、参加してくれた人にその聞き書きしたものを印刷して配った。上の文章は、その時に書いた文章の1部である。やがて、母が亡くなってから、一年もたたないうちに、母の母(榎本志満)の相続に関する問い合わせが私の所に届いた。榎本志満は、1900(明治33)年生まれである。相続はすべて終わっていたのであるが、1カ所だけ榎本志満が所有していた土地が見つかった。そこは、最近区画整理で、市が買い取る形で、相談に来たのである。志満の子ども5人のうち、3人が亡くなっている。そうなると、相続は、稲子の子どもである2人の子どもである私達に権利が出てくるというのである。その時、何枚かの資料が持参されてきた。その中の一枚「榎本志満 相続関係図」と言う一枚のプリントに目がいった。そこに、榎本稲子の夫「今野幸正」昭和36年5月4日死亡と印刷されていた。私は、父が亡くなっていることは、知っていたのだが、それが何年の何月かと言うことまではきちんと知らなかった。だいたい離婚した父のことは、我が家では話題にすることが、タブーであった。そのために、私にとっては、鮮明に覚えている、父との最後の対面は、いつの間にか遠い彼方へ消えて行ってしまったのである。しかし、今回母がなくなり、母の戸籍を生まれてからなくなるまでのものを取り寄せて、いくつかの知らなかった事実が掴めた。

母の戸籍から

 1920(大正9)年7月29日父榎本喜重 母志満の長女として誕生。東京市芝区金杉3丁目26番地
 1934(昭和9)年 1月 埼玉県与野町下落合772番地へ転居 母14才
 1941(昭和16)年 埼玉女子師範学校を卒業し、大宮三橋高等小学校勤務 21才
 1944(昭和19)年 今野幸正と結婚 大宮三橋高等小学校退職  25才
 1945(昭和20)年 10月22日 長男豊誕生 下落合1696番地
 1947(昭和22)年 9月20日 次男宏誕生
 1948(昭和23)年 2月26日 協議離婚 28才

戸籍の年号を重ねながら

 このようなことが、事実としてはっきりわかった。そうすると、最後の父が私に会いに来たのは、1948(昭和23)年 2月26日 協議離婚をしたあとの、何日か後に」最後の別れで、私をだっこして別れのあいさつに来たのであろう。私の年令は、2才4ヶ月くらいであったことが計算できる。人間の記憶として残っているのは、4才か5才くらい後であるので、3才にもなっていないのに、今でも思い出すと鮮明に思い出すことができる。その時に同じ場所にいた政子叔母に、最近改めて聞いてみた。「よく覚えているよ。ユタカが本当に嬉しそうに跳びはねて、みんなが集まっているこたつの部屋に来て、本当に嬉しそうにしていたよ。」と初めて聞いた。それほど私にとっては、嬉しかった父との最後の対面だったのである。

その日が何年かがはっきりした

 やがて、いつの間にか、この時のことは、次第に忘れ去っていったのである。しかし、父が亡くなったと言うことは、うっすらと覚えているのである。それは、父の兄(私の叔父)の子どもである輝彦さんが、偶然当時引っ越していた浦和の家まで来たのである。その日は、偶然外に出て、星を見ていた。そこへ、「この辺に榎本さんという家ありますか。」と訪ねたのである。輝彦さんとは、10年以上会っていなかった気がする。何のようで見えたのかはわからなかった。母に会うと、すぐに母と一緒に家を出て行った。何日か経ち、「何しに来たの?」と母に尋ねると、はっきりしたことは、教えてくれなかった。やがて、祖母志満がそれとなく、私に教えてくれた。「おまえのお父さんが亡くなったことを、知らせに来てくれたんだ。」やがて、少しずつ父の情報が、私の耳に入ってきた。

父の亡くなる頃 

 今の南千住あたりの、「さんや」当たりに住んでいたらしい。おそらく日雇いの暮らしをしていたのであろう。一生独身であったらしい。なくなる頃に、「私には、2人の男の子がいる。亡くなったら、私の骨を、私の兄が住んでいる、埼玉の与野の家に届けてくれ。」と言って、わずかばかりのお金を蓄えて、それを仲間の人に頼んでなくなっていったと言うことらしい。この話をずいぶん経ってから聞いたが、離婚して、去って行った父親だが、生きているうちに1度会ってみたかったという思いに駆られた。少なくとも、私が16才までは、生きていたことになるのだから。父の兄である、叔父は、私達兄弟をかわいがってくれた。私が大学を合格したときに、あいさつに行くと、本当に嬉しそうにして、私を浦和まで連れて行き、「ユタカ、何でも好きなものを買ってあげるぞ。何がいい。」と嬉しそうにして、寿司屋に連れて行ってくれたことを覚えている。あの時、叔父に父のことを少し尋ねれば良かったと今になって後悔している。叔父も、尋ねれば、喜んで話してくれたに違いない。父の骨は、宮城県の仙台に埋葬されたと言うことまでは聞いた。叔父が元気なうちにそのことも聞いておけば良かったと、やはり後悔している。叔父にとっては、血のつながった弟と、縁を切ったのであろう。だから自分からは、話は、出せなかったのであろう。

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