子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月29日(日)丸木美術館50周年記念に参加して

10月29日(日)丸木美術館50周年記念に参加して

 丸木美術館「開館50周年の集い」が、埼玉会館で開かれた。あらかじめ妻に言われて、前売り券を購入しておいた。午後6時の開館に間に合わせて、家を出た。台風の余波で、雨が降っていた。15分前に着いた。すでに、大勢の人が並び始めていた。義理の弟夫婦が、会場整理をしていた。来年の「ぞう列車合唱団」のチラシを入れてもらうために、会場に早く来ていたようだ。すると、整理係が少ないので、頼まれて、会場入り口近くで、お手伝いをしていた。その義理の妹から、2500円の券を2枚渡された。すぐに列に並んだ。しばらく経つと、妻が見えて、券を渡した。会場に入ると、すぐに1番前の席を、5人分確保した。妻と義理の弟夫婦とその友だちの分である。始まる前に、30分近く時間があった。すると、その日のメインゲストのアーサー・ビナードさんが、目の前に立っていた。すぐに挨拶をして、あらかじめ持参したできたての「画文集」と、山形の研究会のまとめである「北に向かいし枝なりき」と、今度の研究会の案内状を差し上げた。「画文集」の簡単な説明をしたら、すぐに手にとって眺めていた。少しその話をしている最中に、色んな人がビナードさんに握手を求めてきたりしていたので、「あとでゆっくりご覧下さい。」とお願いして別れた。

内容の濃い集会

 会が始まると、丸木美術館理事長の小寺隆幸さんの挨拶があった。この方は、墨田教組出身の方で、分会長会などで良く顔を合わせていて知っていた。そのあとは、画面いっぱいに、原爆の図が、大きく映し出され、次々と画面が変わり、解説があった。どの絵も、丸木位里・俊ご夫妻の迫力ある絵であった。
 その後は、「平和を歌うコンサート」が行われた。林光さんの作られた「こんにゃく座」の役者さんが歌を披露した。最後は、アーサー・ビナードさんと高畑勲さんとの対談だった。高畑さんは、「火垂るの墓」や「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」などのアニメーション映画 監督で有名な方である。2人の対談が、おもしろかった。

芸術家が体制に順応すると

 戦争画で有名だった藤田嗣治の絵に対する分析は鋭かった。日本で、戦争画を描いたら、超一流だった藤田嗣治。多くの人に戦争推進の思想を植え付けるために、たくさんの絵を描いた。しかし、戦後は、日本にいられなくなり、ヨーロッパに行きあの有名な『乳白色の肌の裸婦像』等を描いた。しかし、戦前は、国家に忠実な国策の絵を描いた。芸術家が、国家権力の意のままになると、その時は大きな影響を与えるが、戦争に負ければ、恥ずかしい価値になる。

歴史を超えて価値ある「原爆の図」

 その点、丸木位里・俊夫妻の絵画は、時代を超えて、今の私達に大きな影響を与えている。この「原爆の図」が、最初に世に出されたが、1952年だったという話を聞いた。全国にその絵が運ばれて、多くの人に原爆の恐ろしさを伝えた。私は、7歳の時に、埼玉大学に母と一緒に見に行ったことを思い出した。その後、教師になってから、丸木俊さんの話を墨田教組の教育研究集会の記念講演で聞いた。丸木さんは、当時「私は、原発に反対だから、電気で使われる、マイク使いません。」と言って、肉声で講演した。会場は、体育館だったが、みんな静かに聞いていたので、500人くらいの会場は、肉声で聞くことが出来た。その時、元気な叔母さんだなと言うのが、最初の印象だ。やがて、丸木夫妻が、国分さんの同志であることを後から知ることになる。それは、丸木俊さんの勤務先の千葉県の小学校に、平野芙美子さんが勤めていた。平野さんは、戦前国分さんと文集交換を通じて交流があった。また、国分さんが、神経を病んで、職場を休んでいる時に、千葉の市川にある式場龍三郎医院長の病院を紹介した方である。次の文章は、国分さんが亡くなられたあとに、俊さんが書かれた文章の抜粋である。

戦争に負け、日本に平和が来た

 「戦争に負け、平和が来た。ある時、集会があった講堂に人々が溢れていた。2千人以上の人々が、しーんと水を打ったように静まりかえっていた。汗ばむような熱気の中で。壇の上に立っているのが国分一太郎先生であった。この人があの人か、と、つくづく舞台の袖からながめていた。だんだん話に吸い込まれていく自分に驚いた。話している内容は何であったか。たぶん天皇制に関したことであったと思う。この話について国分一太郎先生の右に出るものはない。一同の評価するところであった。まわりまわって同じ道にたどりついたのである。民衆と共にある芸術であり教育である、と言うことに徹しよう、と、同じように思っていたのであろう。年をとるにしたがって同じ場所で顔を合わすことが多くなった。いつの間にかそういう仲間が10人程になっていた。長老格の出井隆先生が亡くなられたときに、葬式に行けなかった。国分先生は、私をにらんだ。これは本当に怒った目であった。私はまぶしくて下を向いていた。国分一太郎先生が亡くなった。私は通夜にかけつけてあやまった。報道された新聞を見て驚いた。73歳。大先輩として尊敬し、恐れもしていた国分一太郎先生は、私と同じ年であった。」
「しみとおるようなお話の国分一太郎先生」1985年5月作「北に向かいし枝なりき」国分一太郎追悼文集より抜粋。

様々なことを考えながら

 国分さんが亡くなったときには、お通夜にご夫妻で杖をつきながら、お花を抱えて参加してくれた。また、高畑さんは、アニメーションの絵の作成にいわさきちひろの絵を随分ヒントにしていることを話された。このいわさきちひろさんは若い時に、丸木俊さんの絵の弟子であった。しかし、国分さんや丸木ご夫妻などが、中国の核実験に反対声明を出したときに、日本共産党から除名された。いわさきちひろさんは、それ以来、俊さんとは、縁を切ったという話を何かの文章で読んだことがある。いわさきちひろさんと言えば、日本共産党の国会議員松本善明さんの奥さんだったから、当然だろう。高畑さんは、戦争に負けたときに小学校の4年生(10歳)であった。高畑さんは、私より、10歳年上と言うことになる。82歳には思えぬほど、若々しかった。そんなことを思い出しながら、話を聞いていた。 午前12時20分記録

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