子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月19日(水) 内田宣人さんの文章

10月19日(水) 内田宜人さんの文章

国分さんとの別れ   内田 宜人

 知らせは、朝、小梅小の榎本さんから届いた。夜、国分さんの死去を報ずる夕刊を見ながら酒場にいた。
 57年、墨田教組の初めての教研集会の記念講演が国分さんで、もう一度、72年の教研集会にもお願いした。墨田教組との公式の関わりはこれだけと言うことだが、国分さんの影響とか人脈的な面で言えば、全国各地の教組の場合と同様に、墨田でも広く、かつ深い。そうした業績や人柄については、弟子であった榎本さん達に語ってもらうのがふさわしい。私はただ、いくつかの断片を綴って別れの言葉に替える。
 国分さんが50年代半ばに出された「教師」〈岩波新書〉や「教員組合の闘争力と言うこと」〈雑誌「教師の友」〉などの影響力は、当時、実に大きかったが、勤評闘争の経験を通じて、私は国分さんの教師論、就中、教員組合運動論に対して批判的な立場を取るようになった。当然、それは色々な機会を経て国分さんに聞こえていた。60年ごろのある日、新宿駅から偶然同じ電車に乗り合わせたとき、「教育学者ががんばってほしい。自分は教育学者でもないのに代表みたいに言われるのは困った状況だ」といわれた。私の批判が念頭にあっての言葉だったと思う。ここでの教育学者云々は、一般的な意味ではなく、特定の政治的限定の上での指摘である。
 私の「国分理論」批判は、たいぶ後になってまとめた私の本〈「ある勤評反対闘争史」〉の中でかなりの程度展開したつもりだが、そのことと、国分さんへの私の畏敬の気持とはかかわりない。行間にそれを読み取ったらしいある読者は、私への匿名の葉書の中で、そうした私の「配慮」を理解しつつもどかしく思う旨を書いていた。
 75年、都同教が結成されたとき、会長に国分さんを推して固持され、結局、私が会長を引き受ける羽目になって今日に至っている。その後も、国分さんの励ましは色々な形で私に届いた。
 何年前になるか。部落解放運動のおおきなレセプッションがあった席で、日教組の槙枝委員長と話をしていてふと気がつくと、国分さんが私のすぐ横に来てにこにこしておられた。無沙汰をわびると、胃を切ってから元気になったと言われた。それがお目にかかった最後となった。
 昨年の全国教研で国分さんが記念講演をされたとき、都教組などが反対してボイコット運動を行った。そうした党派的私情からする非礼のふるまいは、帰ってその人々自身をはずかしめたにすぎないにしても、国分さんが健在で仕事を持って理非曲直を明らかにしていくことがもはやないという事態が、かくも早く来ようとは思わなかった。数数の無念が胸におさめられたままであったろうことを思えば、眠り安かれとは、必ずしも後輩の私は祈らない。
1985年3月1日 「週刊墨教組」 「北に向かいし枝なりき」〈国分一太郎追悼文集〉 
 なお、内田さんを、こよなく愛して、晩年は何かと内田さんと接していた墨田教組元副委員長の長谷川政國さんは、内田さんが定年で現職を離れて、墨田教組とも別れていったあとに、「清風出立」と題して、内田さんの生き様を書いている。

かすかなる信義にこだわり守り来し小さき組織よ去らん日近く

「弟子一人持たず候」かえりみれば身に添うごとき寒き夜の酒

 内田さんは、旧制中学の在籍中から、歌を詠んでいた。

たんぽぽの花みな閉じし草の上過ぎにし人思ひめぐりゆく

 第1高等学校に進学し、その後早稲田大学のフランス語科に入学している。出征して、敗戦を迎えた年の冬に、次のような象徴的な作品がある。

あかときのいまだ暗きに雪の上の雀おのおの影をもちたり

いくさありし日よりいくたび桜散りわがこと終わるとき近づきぬ

 このように、内田さんのことを歌を交えて、送る文章を書いている。実際は、もっと長いのだが、歌を中心に並べてみた。最後に、長谷川さんは、内田さんに歌を詠んで締めくくりの言葉にしている。

すべなくてこの墨田支部を去る悲しみを永遠に残しし内田宜人

 内田さんが退職してすぐに、墨田教組の何人かの仲間が酒を飲んでいて、内田さんの所に会いに行こうと言いだした男がいた。夜の8時はまわっていた。日暮里に住んでいた頃であった。すると、笑顔で我々を迎えてくれた。奥様もいらして、歓迎してくれた。席上、王貞治少年のことが話題になった。王さんは、墨田区の業平に住んでいて、50番という中華屋さんを両親が営んでいた。中学校は、区立の本所中学に通っていた。内田さんの奥さんは、その王少年の担任をされたと初めて、お聞きしビックリした。まだ結婚する前の頃で、内田さんは、英語の教師をしていて、やはり王少年に英語を教えたと話してくれた。いつも背が一番高いので、座席は1番後ろだったと言っていた。
 余談になるが、今日、昔の墨田教組の矢野さんと鈴木健治さんと一緒に食事をした。その時に、王さんの話が出ると、矢野さんは墨田区の王さんの店の近くに住んでいたので、時々そこのラーメンやギョウザの出前を頼んだという話をされた。父親が、「あそこの店はうまいんだ。」と言って、良く頼んだと言うことだ。その出前を持ってきたのが、王少年だったという話を聞いて、これまた、ビックリしてしまった。矢野さんが、小学校の低学年の頃の話である。
 矢野さんの話によると、内田さんが王少年に英語を教えていたときのことを歌にしていると聞いたので、家に帰り調べてみたが見つからなかった。

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