子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月20日(木) 王貞治少年のことを歌う

10月20日(木) 王貞治少年のことを歌う

 昨日、矢野さんと鈴木健治さんの3人で、久しぶりに会った。その日が、内田宜人さんのお通夜の日と重なり、本日の告別式に参列することにした。その折に、昨日も書いたが、内田さんが、王貞治さんのことを歌にしていると言うことを聞いたので、調べてみた。最初は見つからなかったが、昨日の夜やっと見つかった。それは、長谷川政國さんが書いた本の中に出てきた。

時厚く彼にも積めりわれ知る教室最後列の王貞治少年

 内田さんは、「戦後の果ての秋」として、戦後40年の間に作られた、秀作を41首まとめて、本にした。出来あがったときに、わたしの所にも送られてきた。その時に詠んだのだが、その王少年のことを歌ったことをすっかり忘れていた。

桔梗雨に咲く見れば思う国会南門大書せる「虐殺抗議」

 60年安保闘争の時に、東大生樺美智子さんが機動隊によって殺された。その時に抗議集会に参加したのであろう。私は、当時中学3年生であった。

空襲の火のあと残す橋の石に怖れてながくわれは寄らざりき

 東京大空襲の傷跡がまだたくさん残っていた頃、1952年隅田川のかたほとり、辺境の地、墨田区の中学校の教員になった。長谷川さんの本によると、「東京大空襲によって、本所地区はいっせいに劫火に包まれ」、瓦礫の廃墟と化した。それから、7年がたっていたが、赴任した中学校は、空襲に焼かれたままのコンクリートに床を張っただけの校舎であり、三階は戦災者の住所になっていて、おしめなどがぶら下がっていたり、ネギのしっぽが校庭に落ちてきたりした。生徒の中に王貞治少年がいて、教室最後列の席に座っていた。」このように書いている。続いて、
 「やがて、1957年内田さんは、東京都教職員組合墨田支部の支部長に推され、火のように熱い組合員を統べて、墨田という草深い辺境の地に、強固なとりでを構築する。1958年、苛烈な勤評闘争を闘うことになる。その時、内田さんは、33歳、都教組の一支部1300人を率いる立場になった。」とまとめている。
 最後のあとがきのところで、こうはんに次のように書いてある。
「すみだ春秋」を書き続けるにあたり、次の方々との出会いが支えになりました。もう一人の「勤評闘争の子」大田原和子さん、国分一太郎の愛弟子、榎本豊さん。はじめに温かい感想をいただいた長島正美さん。誰よりも内田さんを敬慕する二人、酔いどれ天使の大塚雅明さん、磊落(らいらく)にしてたおやかな岩井春子さん、飄々として「週刊墨教組」を愚直に発行しつづける原好平さん、桜井信久さん」と結んで下さった。2014年3月
「すみだ春秋」〈長谷川政國著〉績文堂定価1800円残部我が家にあります。ほしい方は申し込んで下さい。
連絡先yutaka-e@jcom..zaq.ne.jp 電話048ー256ー1559
 

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