子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月31日(土)古希を迎えて

10月31日(土)古希を迎えて

 10月22日に、古希を迎えた。古来希なる年という意味だそうだ。私の尊敬してやまない、国分一太郎先生が、古希を迎えた年に、私は36才であった。国分先生の古希を祝って、私たち理論研究会のメンバーで、「いま、なにをどう書かせたいか」(明治図書)から低中高3冊の本を発行した。その時の表紙裏の中とびらには、「この本を、古希をこえられた国分一太郎先生にささげる」と言う文章が添えられている。その時の国分先生は、15人前後のメンバーが、先生の家に集まって、研究会を開いていた。いつも先生は、我々の誰かの提案に静かに耳を澄ませてじっと聞いていて、最後に私のような若い者にもわかるようなまとめをしてくれるのである。そのまとめは、実によくわかるまとめをしてくれて、すとんと理解できるまとめをしてくれるのである。先生の頭脳は、どうなっているのだろうと、いつも尊敬してまとめを聞いていたものだった。その時の国分先生は、70才を超しておられたのだが、難しいことをわかりやすく研ぎほぐしてくれる名人であった。

最後のおもてなし

 それから3年後の先生が73歳になった年に、我々を山形の先生のふるさとの研究会に招待してくれた。1泊の旅であったが、先生の実家にも寄せて下さって、そこで弟の正三郎さんから、大きなもてなしをしていただいた。1泊は、近くの碁点温泉に皆で泊まった。山形の作文研究会が、そこで開かれていたのだ。提案したのは、国分先生と、本当は、結ばれるはずの、山田ときさん(旧姓相沢)のお嬢さんの山田和子さんが提案した。ときさんは、今年100歳になられているが、41年前のことだから、60才くらいになられていた。記念講演は、国分先生が行ったのだ。その晩、温泉に入ったときに、先生とちょうど一緒になった。先生の体を見ると、失礼だが、骨と皮だけのがりがりやせておられてビックリした。会が終わった次の日に、先生のなじみの「あらきそば」に行き、おいしいお酒とおそばを食べたことを鮮明に覚えている。その時に撮した写真が、国分一太郎資料室に展示されている。先生は、次の年の北海道の日教組教育研究集会で、血を吐かれて、東京に戻られて緊急入院されて、1985年2月12日に還らぬ人になってしまわれた。73歳であった。

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