子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月9日(日) 山形大会の報告

10月9日(日) 山形大会の報告

聞き書きは、創造的な営み   

共同研究者 今井 成司

 新幹線が、山形どまりだったので、在来線に載ることになった。少し時間があったので、山形駅に降りてみた。東口に出ると、人は誰もいない。中年の旅行客らしい夫婦連れが、所在なげに歩いていただけであった。店も閉まっていた。西側に行ってみた。広い駐車場があり、車が少し止まっていた。広い空き地もある。人はほとんどいなくて、夏の日が、広場のコンクリートを照らしていた。若者が数人、「ポケモンgo」をやっていて、誰もいないベンチの下などをのぞいていた。山形県の県都、土曜日の昼時の光景だった。寂しすぎる。東京一極集中、日本はどうなるのかと思った。
 電車に乗って東根に向かう。3時近くに、研究会の会場に入った。そこでは、「想画」がスクリーンに映し出されていた。山形・東根の戦前・戦後の暮らしの風景である。そこには、その土地で生きる人々の濃密な暮らしがあった。父ちゃん、母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。そして子供たち、いや牛や馬も含めて、風土に生きる姿があった。もう一度取り戻したい。私はそう思った。

人との出会い、それが教師を育てる

 分科会「私を支えた平和教育」で榎本さんは、自分の教師生活の始まりから、語りだしました。組合の人たちとの出会いあり作文の会の人々との出会いがありました。実践の始まりは「原爆の子」の読み聞かせ、感想の詩を書かせることから始まったといいます。
聞くことの意味=聞き書きの中で子供は考える
 その後、墨田での、戦争体験者の父母からの聞き書きへと平和教育の実践は進んでいきます。戦後30年、まだ、体験者は父母・祖父母の中にいたのでした。復員した叔父からの聞き書き中山君の「原博おじさんの戦争体験」は切ない。もう家族は死んでしまったに違いないそう思って田舎の親戚に行った場面です。
 そこで、疎開している人たちがいると聞いておじさんはお寺に行きます。その所はこう書かれています。
「懐かしいお母さんの声がしました。目の前に3段の階段がありました。おじさんは感動で、足が動きませんでした。それで、後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。「だれなの」と近づくお母さんに、やっと前を向くと、お母さんは飛びついてきて「5年待ったんだよ。毎日、毎日待っていたんだよう」とおじさんにしがみつきました。お母さんはワアワア声をあげて泣きました。・・・叔父さんもただ泣くだけでした。
 当時の世の母親たちの思いが、悲しみがひしひしと伝わってきます。「お母さんの木」や「一つの花」が浮かんでも来ます。事実の持つ重さです。 
 中国からの帰還者である母親からの聞き書き遠藤君の「母の姉は中国に、絶対に中国に行こう」は、血染めの布の話から始まります。中国語で書かれた血文字は、父親の愛情のしるしであると聞かせれた遠藤君は、母親と姉が別れ別れになり、姉は今も中国にいることを知ります。そして、絶対に、中国に行こう、と思います。遠藤君は終わり近くにこう書きます。
 ぼくは(戦争がなかったならば、景華さんと別れなくて済んだのに・・・)と強く思いました。でも母は、「戦争がなかったならば中国に死んでいたと思うよ。」と言っています。そうすると父と母は出会わないことになります。僕たち3人の兄弟は、この世に生まれてこなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。僕は戦争のおかげで、母や父やいろんな人に会えたんだなあ〉と正直ちょっと複雑な気持ちでした。
 自分の存在と戦争・社会を結び付けて考え始めています。この事実を引き受けて生きていくという姿勢がここにはあります。その通り、遠藤君はやがて、祖母、母親を伴って、中国に行き、母の姉と再会するのです。
 一言ではまとめられない思い。それが聞き書きには表れています。まとめてはならないもの、息遣いを私は感じました。
聞き書きの意味・可能性
 この後榎本さんは、「戦争体験者の話を聞く」という取り組みに進んでいきます。もう父母の中には、直接に戦争を経験した人はいなくなっていきました。その中で、地域のおとしよりからお話を聞くことができるからです。子供たちはそれを聞いて作文を書きました。「原爆の悲劇」=福地義直さんの話を聞いた子供たちの作文も紹介されました。以下は坂東君の作文です。
 八時十五分ごろ、いきなりピカっと光りました。本当はドンという音がしたそうですが、福地さんには聞こえませんでした。ぼくは、(耳が聞き取れないくらい大きな音だったんだな)。気が付くと福地さんは家の下敷きになっていました。福地さんは、自分の体に刺さっていたくぎを抜き、どうにか抜け出そうとしました。福地さんは「痛いとは感じませんでした」と言っていました。僕は、(釘を抜いていたくないなんて,よっぽど抜け出したくて必死だったんだな〉と思いました。
 坂東君の作文はこの後こう続いていきます。福地さんはこの後、おでこの骨が見えるほどの傷を負ったお母さんと出会います。そして崩れ落ちた家の下敷きになっていた妹を引きずり出して、母と妹二人をおんぶして、救護所までたどり着きます。
 子どもは、ただ聞いたことを書いているのではありません。語られた事実から場面を想像し、その時の人間の心理や状態まで想像しているのです。
榎本さんの報告を聞きながら「聞き書き」についていくつかの条件を考えることができました。
A、子供の主体的なこと。①聞きたい、という姿勢があること②聞く力、メモを取ること、考えながら、比べながら聞くということ。
B、語り手の力。事実で語ること。
C、教師の働きかけ、家族の援助など。
そして付け加えるならばもう一つあります。教師の姿勢です。福地さんとの出会いにそれが表れています。平和や戦争、差別、貧困などにいつも心を砕いていることが、それらへの気づき、人とのかかわりを生んでいるのです。そういう仕事の中で、子どもたちも今までならば考えもしなかったことを、わがことのように感じ始めたのです。
 聞き書きは、再構成、したがって、子供の創造活動です。単なる記録ではありません。子供たちは聞きながら自分のこれまでの学習や生活と比べながら理解しているのです。ですから発見があります。感動もあります。意味づけもしています。それらを今度は聞き手が、表現者として再構成しているということです。
「聞き書き」については、その教育的な意味をもっと、追求していくことが求められていると私は思いました。榎本さんには、そういう意味でも、これまでの聞き書きの記録、実践をまとめてほしいと思います。
 この後の講演で乙部先生は「花は咲けども、見る人もなし」という話をされた。アンダーコントロールされているのは原発ではなくて、私たち自身なのではないか。このような切り返し、その感性が鈍くなってはいやしないか。
 大文字で書かれ・語られる情報ではなく、小文字で書かれるつづり方や語らいに中に、自分自身を位置付けていく。それでいい。 (杉並作文の会)「北に向かいし枝なりき」より。

古くからの仲間今井さんのまとめ

 昨年まで、東京作文協議会の会長をされていた、今井成司さんが、ここ数年我々のこの会に顔を出してくれるようになった。せっかく来てくださるので、共同研究者にお願いした。1970年頃からの友だちであるが、この数年間何かと一緒に仕事をするようになった。昨年度は、1年間かけて、今井さんと田中さんと私の3人で、子ども向けの作文の本「作文名人への道」という本を発行するときにも、何かとお世話になった。

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