子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月10日(火) 珍しい方からのメール

12月10日(火) 珍しい方からのメール

小学校時代の同級生からのメール

 メールを見ていたら、あまり見慣れない名前の人からのメールが届いた。小中学校同級の赤津くんの奥さんからのメールであった。旧姓柳沢禎子さんで、お二人は同級生で、いつの間にか結婚されていた。それは、2ヶ月近く前の10月26日(土)に、小中学校同級生の同窓会が開かれた。2年に一回開かれている会である。中学は、4クラスあり、1クラス50人いたので、4クラスだと200人の児童数になる。そのうちの50人前後の人が集まる。古希を過ぎると、故人になってしまった人が何人かいる。そのときに、同じテーブルに座っていた赤津夫妻がいらっしゃった。我々は、中学3年生の時は、D組だったので、同じテーブルだったのである。会も宴たけなわになり、終わりになる頃、「うちの孫も、1年生になるの。」 という赤津奥様の声がきこえてきた。その日私は、最近出来上がった「作文名人への道」(中学年)という本を、1冊持参していた。誰かにあげようと考えながら会に参加していたのである。その話し声を聞き、これは赤津奥様に差し上げようと決めて、手渡したのであった。お二人から、丁寧な御礼のあいさつをしていただき、その日は、お開きになった。
 やがて、何日から経って、旦那さんの赤津くんから御礼のメールが届いた。今回は、奥様の禎子さんからであった。お二人とも、大変参考になったと、お褒めの文章が散りばめられていた。ありがたいことだ。

小学校時代の思い出

 考えてみたら、このお二人とは、小学校から同じクラスになることが多かった。私は、小学校3年生の時に、途中編入で転校して、そのクラスに編入した。当時は、埼玉大学教育学部附属小学校は、転入試験というのがあった。小学校は、3クラスあった。たしか、赤津くんも途中編入ではなかったか?今は、奥様になっている柳沢禎子さんも、同じクラスだった。中本博先生が担任であった。大変おしゃれな先生で、いつも蝶ネクタイをされていた。写真もよくとってくださった。私は、その当時気が小さく、先生に指されると、ドキドキしてしまい 顔をまっかにして立っていた。今考えると、赤面恐怖症に近かったのかも知れない。どちらにしても、あまり勉強も出来る方ではなかった。中本先生は、算数が好きな先生で、算数の時間になると、時々黒板一杯に文章題を書き、その問題を1時間の授業時間の中で、ノートに写し、それを式を書いて答えを、ノートの書き込む勉強があった。私は、それが苦手で、いつも良い点が取れなかった。成績のよい子は、時間内に提出して、百点をつけてもらえる子も何人かいた。赤津さん、柳沢さんも成績が良かったので、時間内に終えていた子だったかも知れない。いずれにしても、成績のあまり良くない私にとっては、小学校時代は、勉強ではあまり良い思い出はなかった。ただ、休み時間遊ぶのは、大好きだった。友だちも意地悪するような子はいなかった。

中学3年生で再び同じクラス

 やがて、中学に進級し、3年生の時にこのお二人とは、再び同じクラスになった。教科制で、担任は、数学の坂田先生になった。そんな偶然が、このお二人とは縁があったということだ。

高校大学へ

 やがて、私は、当時3流校と言われていた蕨高校に入学した。高校の3年間は、実に楽しかった。友だちにも恵まれ、十分3年間を満喫して過ごした。そのため、大学は、どこにも入れず、1年間浪人生活だった。世の中東京オリンピックの年で、みんな浮かれたいた。暗い浪人生活を終え、なんとか埼玉大学の教育学部に滑り込めた。

大学時代の思い出

 この4年間、バスケットクラブに入部し、4年間毎日のようにボールを追いかけて、心と体を鍛えた。あるとき、私は、バスケットクラブの会計を任された。そのとき、埼大籠球というはんこを作ることを頼まれた。そのときに、柳沢さんのうちが、中山道ではんこ屋さんをしていることを思い出し、そこで作ることにした。お店に入ると、お父さんが応対してくれた。私は、「柳沢禎子さんと、小中学校の時の同級生だった榎本と申します。」とあいさつをした。何か懐かしそうに話をしてくれるかと予想していたら、「あっ、そうですか。」と素っ気ないあいさつだった。出来上がったはんこは、立派なはんこうを作ってくださった。昔気質の職人技を持った父さんだった。このことを、ずいぶん経った同窓会の時に禎子さんに話したら、「うちの父は、そうなのよね。ごめんなさいね」と大笑いしていた。懐かしい思い出である。禎子さんは、このことを覚えているだろうか。禎子さんのお母さんは、目の大きい美人なお母さんだった。旦那の赤津くんの両親のこともよく覚えている。お父さんは、運動会などの時には、見に来られた気がする。なかなか恰幅の良いお父さんで、赤津くんとは好対照だった記憶がある。逆にお母さんは、小柄な人だった記憶がある。同じクラスになることが多かったので、よく覚えているのかも知れない。
 それにしても、私とは、同じクラスになることが多かったお二人である。そんな縁で、今回いい人に、本を差し上げることが出来た。

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