子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月4日(日)豊田正子の「綴方教室」

12月4日(日)豊田正子の「綴方教室」

 11月20日(日)に第10回国分一太郎「教育」と「文学」実践報告研究会を無事終えた。当初の目標の30人を超え、33人の方が1日研究会に参加してくれた。その中の一人で、添田直人さんという方が、昨年に続き参加してくれた。この方は、葛飾区で活躍していた豊田正子さんの研究会を毎年開いている方である。昨年は、田中定幸さんが参加し、繋がりが深まってきた。今回、田中さんが参加できないので、代わりに日色さんと私で参加してきた。第6回の研究会である。添田さんから「豊田正子の青春時代」という題名で、講演があり、その後に、俳優の青山杉子さんの豊田作品の朗読があり、その後に上野重光さんの映画の紹介とその上映があった。

昭和13年上映の映画

 主演の高峰秀子がまだ10代であり、父親役は、徳川夢声、母親役は清川虹子であった。1938(昭和13)年だから、今から78年前の映画である。監督が、山本嘉次郎という字幕が出た。制作主任にあの黒澤明の名前が出ていた。

生まれは墨田区向島

 出生が墨田区の向島となっている。どこの小学校に入学したのかがはっきりしていない。学区域で言うと、小梅小学校になるが、それははっきりしていない。父親は、ブリキ職人であったが、家は貧しく雅子が小学校3年か4年の頃に夜逃げで、葛飾区の方へ転居している。そこで、鈴木三重吉の綴方指導の影響を受けた教師・大木顕一郎らの指導で書いた作文が、『綴方教室』に収められて刊行されるとたちまちベストセラーになり、映画化もされ、本人の朗読による朗読レコードも発売された。その頃、正子はすでに小学校を卒業して女工になっていたが、『婦人公論』に創作を発表、20歳を迎えた戦時中には中国視察に派遣され、『私の支那紀行 清郷を往く』(1943年)を発表した。1945年の東京大空襲では弟を亡くす。
 戦後、日本共産党に入り、年長の作家・江馬修と夫婦同然の暮らしを始める。しかし、その後の人生も波瀾万丈であったようだ。中国の核実験や毛沢東の文革で、中国よりを発言し、共産党から離れていく。旦那の不倫で、離婚し家庭的には恵まれなかったようだ。
ネットで、色々調べていくと、次のような文章にであった。

ネットの文章

 昭和22年春、疎開先から戻り発足したばかりの新制中学一年生になった私は文芸部に入り、顧問の池永先生の指導で、生活作文を書くようになった。
 戦後二年、戦災で焼野原の中での貧しい生活を、ありのままに書いていたのだが、その年の暮、我が家の自転車が盗まれて途方に暮れたものの、犯人が捕らえられ、自転車も戻り、貧しくとも明るい新年(昭和23年)を迎えられたことを「自転車」と題して書いた処、先生から豊田正子の著書「綴方教室」に「自転車」と題するのがあるから読めと同書を示され、豊田正子と「綴方教室」を初めて知った。
 昭和初期の、東京の下町の貧しいブリキ職人一家の生活を、長女である正子がありのままに書き綴り、鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」の懸賞に当選した作文集で昭和12年に出版。翌13年に映画化(東宝・監督山本嘉次郎 主演高峰秀子)された名作。
先生から貸し与えられたのは初版だったようで、紙質も装丁も立派で分厚かった。
 戦後間もない当時の出版物は紙質が粗悪で薄っぺらで、色彩もなかったから目立った。
内容は、貴重な商売道具である自転車を盗まれた一家の悲哀が、活写されていて他の作文と合せて一気に読んでしまった。何よりもありのままの会話による情景描写が見事であった。父親が自転車を盗られた時の説明は次の通りである。
父ちゃんは「おれがな、平田さんの家へいったら、あいにくと。だんながお湯へいって、るすなんだよ。あのだんなときたら、とってもお湯はなげえんだから。で、おらァ、おうせつしつへいって、ストーブであたりながら、おくさんとくだらねえせけんばなしをしてたんだ。そうして、一時間ばかりたつと、だんなさんがかえって来たからよ、かんじょうをもらってさ。げんかんの戸をあけてみたら、おらァ、ぎくっときたな。もう、自転車がねえんだ」といった。
 自転車を盗られた父親の嘆きだけでも、これだけ長く綴るのは、学校での限られた作文の時間や宿題だからと嫌々書いた作文には無いことで、私の書いた「自転車」もその域を出ていなかった。
そこで豊田正子の「自転車」をお手本に書き直したら、当然のことながら、
 我が家の自転車盗難騒ぎの会話は大阪弁で、豊田正子の作品と同様に長文になった。
 文章そのものは豊田正子に及ばずとも、盗まれた自転車が戻って来たハッピーエンドが救いで、明るく書き終えられ、先生からは「よく書き直した」と褒められ、文芸部の機関誌に掲載されたのを読んだ友人の姉さんから「会話が生きている」と評されて嬉しかった。実際、自転車は貴重な生活道具であった。豊田正子が綴った太平洋戦争以前にも増して、敗戦後の焼け野原の街では、自転車がないと商売にも仕事にもならなかった。
電車、バス、電話も不十分で人と人の連絡や所用のための往来、通勤、リヤカーを取り付けての物品運搬等に欠かせず、喉から手が出るほど欲しくとも、新品での入手は至難であり、最も手短かな盗難の対象になり、被害者は悲惨だった。我が家の自転車も戻らなかったなら、大阪へ帰って初めての正月も暗く、作文も書けなかっただろう。
 敗戦国の自転車をめぐる悲哀は、何処も同じだった。我が家の自転車泥棒騒ぎを作文にした同じ年。イタリアのビットリオ・デ・シーカ監督の映画「自転車泥棒」が生まれる。
 翌24年春、両下肢マヒが起きた私は以後何年も映画館に行けず、TⅤ時代になって淀川長治の「日曜洋画劇場」でも見た記憶がなく、その後のNHK教育TVの「世界名画劇場」と「衛星放送」で何度も見ることになる。
 敗戦直後のローマで失業中の父親が、街のポスター張りの仕事にありつくのに必要な古自転車を漸く手に入れたのを、仕事始めに盗まれて途方に暮れた挙句、他人の自転車を盗んでしまう姿を息子の少年の目を通して描かれたイタリアン・リアリズムの代表作である。同じ頃、ケーブルTVで映画「綴方教室」を見て録画。繰り返し見ることになった。両作品が白黒フイルムであることの、写実感が強く漂い、どんなに貧しくとも身体さえ健康ならば、その日の糧を得るために親を助けて働く豊田正子や映画「自転車泥棒」の少年の姿が、歩行不能になって長男でありながら、どん底生活の家計に何等寄与出来ぬことを最大の苦痛として、十代後半を過ごした私には眩しく羨ましかった。
どん底生活の頃、父の留守中に内職をしていた私と、傍に居た母の不注意から、自転車が盗まれ戻って来なかったことを苦にして、自分の食事を減らして、償なおうとした思い出とも重なった。
 戦後十年近くを経ても、尚、自転車泥棒が横行していたのである。
 豊田正子の「自転車」をお手本に、自らの作文を大阪弁の会話をふんだんに使って書き直した頃が、堪らなく懐かしかった。
平成17年8月記      吉本  昭
 

豊田正子の入学した小学校は牛島小学校

 理論研究会にも顔を出してくれた、添田さんによると豊田正子さんの入学した小学校は、牛島小学校と教えてくれた。そこで、牛島小学校について調べてみた。
 牛島学校は学制公布から6ヵ月後の明治6年5月、第6中学校区第2番小学として南葛飾郡須崎村(現・向島三囲神社わき)に設立された。当時、学校の呼称は番号によったが、政府の校名設定の布告に従って、同年5月3日、第2番小学校牛島小学校と改称した。学校を番号でなく校名呼称に改めたのは、上記2校とも明治6年5月である。
 本区教育史によれば、この2校に続いて明治8年、本所学校、江東学校、柳島学校、中和学校、墨陀学校、明徳学校の6校が設立された。しかし、その設立資金や維持費用のほとんどは公費ではなく民費によるものであった。
 例えば、明治6年10月22日付の牛島小学校に対する「寄付者一覧」には、弐百円から二十五銭まで56件もの住民からの寄付金の金額と氏名が記録されている。当時の須崎村を中心として、中ノ郷村、請地村、小梅村の子弟が通っていたことから、同地域の住民からの寄付者名が多く、一覧の中には芸妓三吉という記載も見られる。このように牛島学校は、村民の苦しい生計の中からその資金を拠出したのであった。
 なお、榎本武揚は、牛島学校の校名の篆額(てんがく)を書いているが、墨田公立小学校の草分けであった牛島小学校が、戦後廃校になったのはかえすがえすも残念である。
 いずれにしても、当時の本所・向島の人々は、教育に夢を託し、学校設立にだれもが情熱を傾けたのであった。

東京大空襲で全焼する

 三囲(みめぐり)神社のすぐ近くと言うことなので、小梅小学校とは、目と鼻の先になる。小梅小学校は、1920(大正9)年創立となっているから、今年で96周年になる。牛島小学校と、並んで立っていたくらい近い距離に建っていたことになる。戦前の墨田区の人口は、ピークで35万にもいたので、相当な人口密度なので、学校同士が意外と近く接近していたのだろう。私が勤めていたときには、創立60周年と65年の記念行事を行っている。とくに60周年の時には、タイムカプセルを埋めた。40年後の100周年の時に、それを取り出すことにしている。当時6年生を担任していたが、子どもたちの作文などがその中に入れてある。当時掘り出すときには、76歳くらいになっているから、それまで生きていたら立ち会いたい者だと考えていたが、あと4年でその日がやってくる。

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