子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月8日(木)真珠湾攻撃の日

12月8日(木)真珠湾攻撃の日

 現職の頃、3月10日 5月3日 6月23日 8月6日 8月9日 8月15日 12月8日の日を、大切にして、子どもたちと一緒に考えあってきた。今の大人も含めた子ども達に、この日が何の日なのかを、全部言える人がどのくらいいるだろうか。
 3月10日(東京大空襲) 5月3日(憲法記念日) 6月23日(沖縄慰霊の日) 8月6日(広島原爆投下) 8月9日(長崎原爆投下) 8月15日(敗戦記念日) 12月8日(太平洋戦争開始・真珠湾攻撃に日)
 朝日の「声」の欄には、それを意識した投書が多かった。母もこの年(1941年)に師範学校を卒業し、大宮の三橋高等小学校に勤めだした。そこで、朝礼台の上で、長刀(なぎなた)の指導する母の写真を見たことがある。ほとんどの国民が、何の疑いもなく、この戦争に突入していったのである。その役割を担ったのが、新聞社の大本営発表をそのまま報じた記事であった。そのことに触れた記事も載っていたので、その記事と「天声人語」をここに載せておく。  

主婦 浅見美奈子(福島県 55)の投書

 12月8日になると、テレビで見た75年前の真珠湾攻撃の映像を思い出します。一度も会うことなくビルマ(現ミャンマー)で戦死した祖父を思い、戦時中に家族を守った祖母の面影が浮かびます。
 祖母は孫の私を大変かわいがってくれました。戦時中は私の母ら5人の子どもを食べさせるため農家に行き、大切な着物を食べ物と交換したそうです。当時は違法だったそうで、ある日、警察官に見つかって連行されそうになりました。普段の祖母だったら、刃向かえなかったでしょう。その時の祖母は「腹をすかせた5人の子がいるのに、こうするしかないだろう」と啖呵(たんか)を切り、食べ物を持って無事に帰りついたそうです。
 「とにかく生き抜くんだ」という強い姿勢に、私は胸がジンジンとしました。
 祖母は6年前に亡くなりました。お彼岸とお盆には、お墓参りをして、「おばあちゃん、ありがとう」とつぶやきます。
 戦時中、女たちも、家族を守る命がけの戦いをしたことで、命がつながり、今の私がいます。悲しい歴史は二度と繰り返さない。そう肝に銘じなければと思っています。

(天声人語)真珠湾攻撃から75年

 75年前のきょう、日本の株式市場は大きな盛り上がりを見せた。日本軍による真珠湾奇襲が歓迎され、海運業など多くの株が値を上げた。当時の朝日新聞には「さながら現状打破を歓迎する国威発揚相場の観があった」とある▼実はこの日の早朝、賀屋興宣(かやおきのり)蔵相が心配していたのは株価下落だった。「残念ながら、戦争を阻止できなかった……国民は内心開戦に反対で、戦争の前途に危惧を持っているのであろう」と語ったとの記録がある(迫水久常〈さこみずひさつね〉著『機関銃下の首相官邸』)▼先行きへの不安から株が売られると見たが、結果は逆だった。米軍の戦艦などに大きな打撃を与えたとの発表に高揚感が広がった。脇に追いやられたのは冷静さだった▼開戦は避けるべきだとの認識は指導者たちの間に広く存在していた。山本五十六(いそろく)・連合艦隊司令長官が「是非やれといはれれば初め半歳(はんとし)か一年の間は随分暴れて御覧(ごらん)に入れる。然(しかし)ながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」と語ったのはよく知られる。日米の生産力の差も明らかだった▼歴史書を開くと、内心は戦争に反対していたのに強く主張しなかった要人が多いことに驚く。破滅的な結果を招く可能性を感じつつも自らの責任で発言することを避け、空気に流された。そんな体質はいまの政治に残っていないか▼安倍晋三首相は今月下旬、真珠湾を訪ねる。慰霊の言葉とともに、日本がなぜ無謀な戦争になだれ込んだのかを語ってほしい。歴史からの教訓に区切りがつくことはない。 2016年12月8日

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