子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月28日(日 )宮坂さんの訃報

2月28日(日 )宮坂さんの訃報

 それは突然の携帯のメールで知らされた。発信者は、元墨田教組委員長の加藤宗三郎さんからであった。私が、墨田教組の副委員長になったときには、すでに執行委員をされていた。個人的には、執行部に加わって、65歳になる1年前に、執行部を辞めるまで、ずっと同じ執行部の一員であった。執行部に加わった最初の何年かは、毎日のように、組合事務所に通う、小山委員長、竹田弘書記次長に付き合って、夕方5時過ぎに顔を出すようにしていた。お二人が、なかなか帰らず、時には、9時10時過ぎまで残るようなことが、何度かあった。そんな時に、時々事務所に顔をだし、おにぎりなどを差し入れてくれたり、「榎本さん、あんまり無理しないでね。」と気を使うやさしい方だった。秋になると、長野の実家がりんごを育てているといって、蜜入りのおいしいりんごを執行委員会のときに、振る舞って下さった。また、墨田の組合の新聞で、「週刊墨教組」の「顔」を、何年も連載したアイデアは、宮坂さんだった。そこには、同じ職場の図工の教師に似顔絵を描いてもらい、長らく原稿の依頼から、すべての校正は、彼女の仕事であった。硬い記事が多い中で。漫画を担当した曽根さんとこの「顔」は、秀逸であった。

再任用も、お世話になった

 個人的にも、退職後、再任用で勤めた職場に、宮坂さんがおられた。岩田さんとお二人がいるので、5年間、何不自由なくのびのびと仕事をすることができた。職員会議などの発言も、ピシッと決まる光った意見が多かった。また、人権作文集会を私に仕向けてくれて、学校全体で5年間全校で取り組めた。高学年担当があったときに、6年生の移動教室に、校長と直接交渉して、私を推薦してくれて一緒に参加したことも懐かしい。
 くわしく知っている岩田さんに電話をして、なくなったいきさつを少し伺った。現役の時に、乳がんを手術し、その後ずっと検診を大事にしていると、聞いていた。退職すると、長野の実家に帰られて、90才を超されたお母さんの看病をしておられた。そのお母さんも、亡くなられて、りっぱな家を建てられて、余生を楽しんでおられた矢先の出来事であった。安保法案反対の全国大会が、日比谷野音で行われたときに、わざわざ長野から来ておられた。「あら、しばらく。」と笑顔が、最後の出会いになってしまった。
 ご冥福を、心より願います。宮坂さん、お世話になりました。私より、3才下の67才であった。

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