子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月17日(木 )私の平和教育その1の復活

3月17日(木 )私の平和教育その1の復活

私を支えた平和教育

作文教師との出会い

 教師となって最初の職場は、豊島区立池袋第三小学校だった。4年生を担任した。3クラスだった。隣の先生が、作文教育を大切にしている女教師であった。「子どもに日記を持たせて、自分の生活を書かせると、楽しいわよ。」と誘いを受け、日記指導を始めた。毎日のように提出される子どもたちの文章を読みながら、赤ペンの入れ方や1枚文集の作り方を教わった。教師2年目の時に、その先生と、区内の何人かの人が集まって、豊島作文の会を結成した。

国分一太郎さんとの出会い

 1970年の年だった。やがてその先生が、国分一太郎さんの「新しいつづり方教室」〈新評論〉を紹介してくれた。何年か経つと、「国分先生のところで勉強会しているけど、一緒に行かないか。」と誘われて、東中野の国分先生の所におじゃまするようになった。東京・千葉・神奈川などの現場の教師が、40代のベテラン教師が中心になって会を運営していた。教師になって、4年目くらいの頃だった。正直言って、そこで話されている内容をじっくり聞くだけで背一杯だった。国分先生は、提案者とその後の話し合いには、ほとんど意見を言わず、最後の方にまとめてくれるのであった。そのまとめ方が、私のような新米教師にも、よくわかるように、理論化してくれるのであった。やがて、神奈川から、田中定幸さんなども参加するようになり、若い人も増えてきた。

平和教育への芽生え

 1次会が終わると、国分さんの手料理で、お酒を飲み合うのが恒例であった。「田中君、榎本君、そんなすみにいないで、もっとこちらに来て遠慮せず話をしなさい。」と、私たち若者にも気を遣って下さるのであった。やがて、僕は国分さんの人柄にすっかり魅了されてしまった。その、国分さんの本を次から次と読み、子どもの文章の読み方を丁寧に教わった。国分さんは、日本作文の会の常任委員をされていた。全国大会では、「平和教育と生活綴り方」分科会の世話人だった。その頃から、全国大会などに行くと、国分さんの追っかけをしていた。平和の問題は、とても大切だと、感じていた。「原爆の子」(長田新)を読み聞かせをして、その感想文を書かせたりしていた。7年間勤めた豊島区から、墨田区に転勤した。

東京大空襲の被害のあった墨田区へ

 教師になって7年間勤めた豊島区から、墨田区へ転勤した。隅田川の言問橋を渡るのは、生まれて初めてであった。橋の上の所々に、くろいシミがあった。それが東京大空襲の時に、橋の上で亡くなった人々の死体の油であると教えられたのは、それからかなり経ってからであった。やがて墨田区と江東区の2つの区が、東京大空襲の一番被害のあった地域と言うことを初めて知らされた。現在の言問橋は、建て替えて、新しい橋に変わった。その黒いシミのついたかけらを残そうと、今でも区内のいくつかの小学校に保存されているはずである。言問橋のたもとにあった小梅小学校の隅田川側は、奇跡的に火災を免れて、古い木造の建物が残っていた。戦前の建物が残っているということで、写真を取りに来るような人がいた。今は、改築などして、その頃のものは、ほとんどなくなってしまった。
 転勤して最初に担任したのは、五年生であった。まだ父母の中には、戦争体験者が何人かいた。文章表現力を高める指導を継続して進めた。6年の最後に、「年配の人から戦争体験を聞き書きする」ことに初めて挑戦した。

墨田区立小梅小 六年 男子

 母から、東京大空襲の話を聞きました。一九四五年三月十日は、亡くなった祖父の四十二回目の誕生日でした。そのため、いも、米、豆などを集めて、赤飯をたきました。その夜赤飯を食べて祝っていると、母のいやな空しゅう警報が鳴りました。しかたなく母達は、今の吾妻橋三丁目から業平の東武ガーデンに逃げました。祖父は、赤飯を持ち、母は、幼い妹をおぶって逃げました。途中の橋の所で背中の妹が、
「お家に帰りたいよ。早くお家に帰ろう。」
と泣きながら母に言ったそうです。今でもその言葉が、母の耳に焼き付いて離れないそうです。やっと東武ガード下にたどりつくと、今度は祖父とはぐれてしまいました。そうすると、また妹が、
「お父さんは、お父さんは。」
と言ったそうです。その先は、どうなったか、母の記憶にはありません。昔住んでいた四つ木に行くと、祖父と会えたそうです。母の戦時中の記憶は、これぐらいです。(大切なところ抜粋。)
一九七七年一月作
 東京大空襲の体験者が保護者の中に、何人かいると言うことも初めて知ることになる。大空襲の中を、逃げ惑い助かったこの方は、今は80才を超えられた。私が担任していたとき、40才くらいの年だったことが分かる。

墨田区立小梅小 六年    男子

 ばあちゃん(母の母)は、朝鮮へキリスト教の教えを広めるために行っていた。母は、昭和20年には、六才でした。(略)昭和二十年八月十五日終戦。朝鮮の釜山から船で下関へ、それから九州の博多に帰ってきた。(略)母は、四人兄弟のうち、ただひとりの女の子であった。母は、男のかっこうをして歩いていた。それは日本はアメリカに負けた。それで日本にいるアメリカ兵が、ツッパラかって、日本の女をいじめるので、女は頭の髪の毛をかって、クリクリにして男のかっこうをしてごまかしていた。母も、例にもれず、そうしていたのだ。だから母は、どうにか助かった。 一九七七年一月作
 アメリカ軍の上陸に備えて、母親が小学校低学年の時に、頭を丸坊主にして男のかっこうをしていた事実は、衝撃的であった。歴史の事実として、このようなことが書かれていたことは、知っていたが、実際に自分のクラスの保護者の方が、このような格好をして、暮らしていたという事実が重たい。

母から聞いたおじいちゃんの話 墨田区立小梅小六年 女子 Edit  私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、

「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の十一月十八日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校二年生。おじいちゃんは、三十三才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って三年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、二十一才の時だった。おじいちゃんは、それから六十七才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。 一九七七年一月作
 母親からの伝聞の聞き書きだが、祖父のシベリア抑留体験を、ていねいにまとめている。まだこのような実践が、子どもたちにできた時代である。体験者である祖父が生きていれば、103才になっている。兵隊生活で生死の中を彷徨った、体験の聞き書きは不可能に近い。体験者の自分の父親が亡くなっているので、この貴重な話を子どもに語って下さった母親は、当時40才くらいである。その母親も、昨年なくなったという話を聞き、仏前に手を合わせに行ってきた。
 最近小熊英二さんが、シベリア抑留の父親の体験を、雑誌「世界」〈岩波書店〉に連載した。その連載が終わり、「生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後」〈岩波新書〉を読んでも、生きて帰ってきたことが奇跡に近い。60万人あまりの人が抑留され、5万人あまりの人々が、無念の死を迎えている。
 ガダルカナル体験者の漫画家水木しげるさんも、93才で昨年なくなった。戦争体験を、漫画で描き、戦争の惨めさ、むごさを訴えた。よくも奇跡的に助かったものだなと、驚きながら読んだ。 墨田区の教職員組合では、教研集会の折に、丸木俊さんや野坂昭如さんなどに講演をお願いしたこともある。ことに印象に残っていることは、主任手当拠出のお金で、野坂さんをお呼びして、戦争体験を語っていただいた。講演が終わり、お礼のお金「50万」を差し出したら、すぐに領収書を書き、「私が戦争体験を語るときは、お金は受けとれません。組合に寄付します。有効にお使い下さい。」と言われて、おかねを受け取らなかった。その野坂さんも、この間お亡くなりになった。

つづるへの原稿

 高知の坂田さんから、「つづり方通信」への原稿を頼まれた。私の教育実践の柱は、「平和教育」が中心であったのでそのことをまとめることにした。聞き書きの作品は、結構長い作品が多いので、何回かの連載にすることにした。
 3月8日の文章を読まれた坂田さんが、榎本さんが書かれた実践だから、ホームページに載せても結構ですと、わざわざ私宛にメールして、下さったので、載せることにした。

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