子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月9日(土)『東京大空襲の前日に』

3月9日(土)『東京大空襲の前日に』

 3月9日から10日にかけて、68年前に東京の下町にB29から、焼夷弾が何千発と落とされた。東京大空襲の日だ。一晩に10万人の人々が焼け死んだ。その火の海の中を逃げ延びて生き残った方がたくさんおられる。しかし、当時の様子を体験した人たちは、次第に減ってきている。当時17歳であった少年が、今でもそのむごさを語り継がれておられる。今年85才になられる滝保清さんにとっては、生涯忘れられない日になったのが、今日この日であった。曳舟文化センターで、滝さんが書き下ろした「赤い吹雪」の朗読劇が開かれた。半年前からこの日のことを滝さんから直接連絡を受けていた。会場は、昼の部と夜の部の2回講演であった。昼の部の招待状をいただいていたので、1時半の開場に間に合わせて我が家を出た。滝さんから、券は完売したということを聞いていたが、着いてみると、7割くらいの入りであった。若い人の姿が少ないことが、気になった。それでも、滝さんの思いを語るプロの声優さんの演技は、迫真に富んでいた。できるならば、もう少し若い人たちにも見に来てほしい気持ちであった。
 滝さんには、語りをお聞きして20年以上のおつきあいである。柳島小、立花小、緑小、堤小と平和の語り部を全校集会でお願いした。また、2年前は、日本作文の会の全国大会の移動講座にも来ていただいた。40人近くの現場教師が、スカイツリーの近くの業平小学校で1時間ばかり語っていただいた。読売新聞の東部版に取り上げて記事にしてくれたのもいい思い出になった。滝さんのお話は、いつもたんたんと事実を語るのであるが、それがかえって聞き手の子供たちにも、大人にも共感する話である。

滝さんのお話を聞いて

墨田区立堤小学校 六年 矢田部 航時
 三月九日の月曜日の今日のことです。四時間目に、平和集会がありました。集会は、ランチルームで行われました。みんなすわっていると、見慣れない人がいました。それは、おじいさんです。ホワイトボードに、
「語りべ滝さん」
と書いてありました。
(この人が、滝さんだな!)
と思いました。ぼくは、
(今日は、どんなことを話すんだろう。東京大空襲て書いてあるから、東京大空襲のこ とを話してくれるんだな。)
と思いました。ぼくは、
(よし!また新たな勉強ができるぞ!)
と思いました。しばらく辰と、滝さんの話は、始まりました。最初は、けいほうが鳴ったというのから始まりました。ぼくは、ドラマなどで、こういうけいほうのサイレンは聞いたことがありますが、このサイレンとともになってくるけいほうの放送は、聞くだけで怖いです。戦争当時に生きていた人たちは、このサイレンとけいほうを聞くたびに、
(どれだけ怖い思いをしたのかな?)
と思いました。どんなにねむくても、あのけいほうが鳴るとねられないし、ずっと起きてなきゃいけない。あのけいほうだけでも、こんなに大変だったあの時代の人たちは、
(ほんとうに苦しかったんだろうなあ。)
と思いました。だけど、『夜中の十二時、せめてきたぐんは、帰りましたよう。』と言うけいほうが鳴って、滝さんは安心して、二回にある寝室に向かい、寝ようとしていた。だけど窓が明るいので、窓を開けてみた。すると、橋がもえていた。滝さんは、あわてて、家族でにげようとした。お母さんは、幼い娘(滝さんの妹)を友人の家にあずけに、ひっしに行った。滝さんは、
「必ず帰ってきてよ!」
と母に言った。だけど、木の板に火がついたりした。火の玉が飛んできたりしたので、町中が、火災になっていた。滝さんや滝さんのおじいさん、おばあさんはにげようとした。滝さんのおじいさんは、足が悪いので、歩けなかった。滝さんは、おじいさんをおぶって、にげようとしたのだ。ぼくは、
(すごいなあ、こんなまわりに火だらけで熱いのに、おじいさんをおぶってまでして、に げるなんて・・・。)
と思いました。でも、おじいさんのせなかに火がついた。滝さんたちは、せなかの火をひっしに消した。消したは消したものの、今度は、おじいさんの足もとに、火がついた。ふつうは火のつきにくいおじいさんのズボンだったが、ほうたいに火がついてしまったのだ。ぼくは、
(うわあ~、大変だな。)
と思いました。
(火にもえて、熱かっただろうな。)
と思いました。もう、どうすることもできなかった滝さんは、おじいさんをそのままにして、お母さんを探しに行った。お母さんがあずけに行ったところの近くに行った。このときは、視界にけむりがいっぱいで、前がよく見えなかったりしたと言っていました。けれど、ちょうど目の前にお母さんがいた。ぼくは、
(よかったあ、お母さんが見つかって、このまま見つからなかったら、滝さんはどうなっ てたんだろう・・・。)
と思いました。滝さんは、お母さんに、
「おじいさんは助けられなかった・・・、おばあさんは一人でにげた。」
と言いました。ぼくは、
(戦争って大切な家族や親せき、いとことかをなくして、いやだなあ。)
と思いました。この後滝さんと滝さんのお母さんは、空き地に行ったけど、荷物や人混みのせいで中に入れなかった。だから、中和小学校に行った。学校は、てっきんコンクリートで、だいじょうぶだからと言って、お母さんと滝さんは、入りました。だけど、学校の中にも、火が入ってきました。ぼくは、
(ああ、学校の中に火が入っちゃった!だいじょうぶだったのかなあ。ひは、けせたのか なあ。)
と思いました。消火活動をしていた。滝さんは、いつの間にか寝ていたのだ。ぼくは、
(夜中の十二時過ぎで、また子どもだから、たえきれないよなあ。)
と思いました。
 やがて滝さんは、目をさました。その時は、朝だった。火は消えていた。あの光景は、なくなっていた。しかし、滝さんは、あるものを見た。それは、どろのかたまりが、校庭の真ん中に置いてある光景だ。ぼくは、
(何でどろなんて置くんだろう・・・。おかしいなあ・・。もしかして、滝さんは、死体 の山のことを、どろの山とかんちがいしてたのかも・・・。)
と予想しました。すると、それはあっていました。滝さんは、よく見ると、やけた人の死体でした。ぼくは、
(この光景を見た滝さんは、どういう思いだったのかなあ。)
と思いました。この、人の死体の山を見た滝さんは、
(きっとすごく悲しかったんだろうなあ。)
と思いました。ぼくは、
(でも、あのとき、滝さんとお母さんは、学校にひなんしたから、助かったんだなあ。)
と思いました。
(滝さんは、あんな戦争の中、生きたえたなんて、すごいなあ。)
と思いました。ぼくは、
(滝さんの心に負った傷は、一生消えないなあ。)
と思いました。ある一つのことでケンカが始まる。戦争も同じ、ある一つのきっかけで始まる。差別こういや、意見が合わないため、国の取り合い、自分の国は強いと見せかけるため、こんなくだらないきっかけで戦争が始まる。ぼくは、バカバカしいと思いました。そんなくだらない戦争やけんかで国民や、自分を傷つけて・・・。ぼくは、もっと仲よくすればいいじゃないかと思いました。
「あの子は、何人だから!」や「あの子は、勉強ができない!」とか、そういう差別こういは、だめだと思いました。みんな仲よくした方がいいと思いました。ぼくは、
(二度と戦争をしてはいけないなあ。)
と強く思いました。

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