子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月3日(火)平和教育の出発点

4月3日(火)平和教育の出発点

年配者からの値打ちある生活を聞き書きするきっかけ

原 爆     豊島区立池袋第三小学校  五年 石田弘子

原爆のけむりは、
人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
「本当に、悪かった。」
と言っているんだ。
でも、広島の人のくやしさは、
今でも消えない。
きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
一人残された子どもは、
きっと、戦争をとめるだろう。
その時の気持ちがわかるなあ。
きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
一九七0年 十月三十一日発行 一枚文集 「太陽の子二十三号」より

 この子どもたちを担任したときは、3クラスあった。同学年に、日本作文の会の会員だった大須賀敬子さんがおられて、その先生から、作文教育の大切さを教えていただいた。一枚文集の作り方、日記の書かせ方、すべて教わった。
 教師になって二年目の夏、大須賀先生に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。全体会の開会式は、2000人以上の人々が、手弁当で集まってきた。高学年の詩の分科会に参加した。世話人は、江口季好さんと小沢勲さん。提案者は、京都の岡本博文さん。感動的な詩をいっぱい紹介して下さった。昼休みの休憩があり、午後の会が再開された。そのときに、世話人の小沢勲さんが、岡本さんの実践への感動を、詩に仕上げて、読み上げてくれた。昼休みの短い時間に詩を書いてきて読み上げた小沢さんにビックリしてしまった。岡本さんから、教師も感動するような本を読んだら、すぐ読み聞かせを勧められた。
 野球帽をかぶって、参加していた小沢さんの姿が懐かしい。江口さんも、小沢さんも、岡本さんも、もうこの世の人ではない。
*「原爆の子」の作品のすごさ
 その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、一気に読み終えた。原爆投下後に書かれた子どもの作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。冒頭に載せた作者石田弘子は、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けた。詩の書き方など、大して教えなかったのだが、「人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。」といきなりの書き出しが気にいった。読み聞かせをした作文の事実に、石田さんは、感動してくれたのだ。作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて一枚文集にして、クラスで読み合った。。

鑑賞のすばらしさ

 子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。
 わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめる。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせ、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもあるが、私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。
 この子どもたちと、3年間卒業するまで、担任することができた。

東京大空襲の地へ

 7年間豊島区に勤めて、墨田区に転勤した。言問橋のたもとの小梅小学校という粋な名前の学校へ勤めることになった。浅草駅から歩いて、言問橋や吾妻橋を渡って通った。今から40年以上前の当時の言問橋は、橋のあちこちに黒い油のシミのようなものが結構残っていた。それは、東京大空襲の時に、そこに大勢の人々が集まり、逃げ道を失い川に飛び込んだり、焼け死んだりした、人々の黒焦げになったシミだと聞かされた。今、スカイツリーの立っている下は、大勢の焼け死んだ人々がそこで折り重なっていたという話を、当時そこから逃げてきた生き証人の滝保清さんに語っていただいた。
 1945年3月9日の夜から10日の未明にかかけて、一度に10万人の人々が亡くなってしまった。亡くなった人々を、臨時で埋葬するのに、現在の隅田公園に埋めたという。何年か経ち、そのままではまずいだろということで、また掘り起こして、近くのお寺にいくつかに分けて埋葬したと言うことである。その掘り起こしの仕事をした人は、刑務所にいた人たちが強制的に働かされたと言うことも聞いた。
 今でも、吾妻橋や言問橋のたもとには、3月10日には、お花が飾られ、お参りする人が、たくさんおられる。墨田区内の小学校では、「平和教育」を学校ぐるみで取り組んでいるところが、かなり残っている。語り部に来ていただいて、全校集会を1時間必ず教育課程の中に組み込んで取り組んでいるところもある。また、言問橋近くの「すみだ郷土文化資料館」では、学芸員の人たちが中心となって、大空襲を風化させないとして、体験者にその時の体験を絵にして毎年、それを展示している。
 5年生の担任になったが、まだ、保護者の中には、大空襲の火の海の中を逃げたりした方もおられた。中には、満州から引き上げてくるときに、ソ連兵から逃れるために頭を丸坊主にして、男のかっこうで、日本に逃げ帰ってきたというお母さんもいた。

聞き書きのスタート

 私の教育実践は、そこで決まった。年配の人たちから、昔の貴重な体験を聞き書きしようと決めた。聞き書きをすることによって、年配者から昔の貴重な話を聞き出すことができた。特に「戦争」と言うことを体験した話は、「生きるか死ぬか」の場面で、人々は、どのように向き合ってきたのかが、よく伝わってきた。戦争が始まると、人間の尊厳がすべて無視される。「人は、幸せに生きていく権利がある」ということが、いとも簡単に壊されてしまう。語る方の側も、今まで沈黙していたが、やはり語ることによって、生きる大切さを語る相手に伝えることができた。書かれた作品をクラスで読みうことによって、聞き書きの仕方を学べた。語った内容をさらにくわしく聞くために、再度質問したり、自分の考えをそこで入れる書き方も学べた。

書き手、語り手、指導者

 この仕事を通して、大事なことに気がついた。それは、語り手の話し方が、抽象的でなく具体的であること。書き手の本人が、しっかりと聞き出し、そこに自分の考えも入れて書いていること。最後に、この2人の関係をしっかりと応援する担任がいて、聞き書きのポイントを事前に学んでいくことが大切になる。
 退職するまで、墨田区に勤めることができたので、前半は、平和教育を後半は人権教育を学校ぐるみで取り組めるところまで、行き着いた。
 年刊児童子ども文詩集には、何人かの作品を、載せることができた。
「お父さんから聞いた戦争の話」小梅小 2年 池田純子 82年版
「先生から聞いた東京大空襲の話」小梅小1年 鈴木理恵 83年版
「原博おじさんの戦争体験」 小梅小5年 中山建人 85年版
「母の姉は中国に」 立花小5年 遠藤昭城 01年版
 この中で、今読んでも心にジーンとくる作品の一部を紹介したい。それは、85年版に載った中山君が聞き書きした作品の一部である。母親の知り合いの原博おじさんが、兵隊にとられて、戦争体験者であることを知る。そこで、母親と一緒に、戦争体験の話を聞きに行く。事前に聞き書きする前に、担任の私と相談した。10項目ぐらい何を聞くかを箇条書きし、それを事前に相手の原さんに渡しておく。当日は、テープレコーダーを持参して、聞き書きを勧めた。中国・フィリピンと生死の間を彷徨いながら、日本に帰国して、肉親と対面するときの場面である。

帰 国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員泉の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。
 中山君は、この文のあとに、「おじさんの受けた教育」と小見出しを付けて、なぜ戦争が起きてしまったのかを考えている。まとめとして「ぼくの思うこと」として、最後に、戦争に負けてから作られた「日本国憲法」等をしっかり学び、平和のありがたさを忘れないようにしたいまとめている。

再び聞き書きを

 聞き書きも、この作品が最後かなと考えていた。それは戦争に負けて40年もたってしまったから、聞き書きする人もいないだろうと考えて、しばらくやめていた。しかし、当時「作文と教育」の編集長をされていた本間繁輝さんからの依頼で、「平和教育と言うことで、取り組んでほしい。」と依頼されて、出来上がった作品が、遠藤昭城君の書いた「母の姉は中国に」。それは、私も初めて知る、歴史の事実から起きてしまった本当の話を、母親はずっと秘密にしていた。だが、子どもにせがまれて、初めて自分の生い立ちを語りながら、自分の本当の姉が、今中国にいて、まだ会ったこともないという話であった。遠藤君は、母に辛抱強く聞き書きをし、遂に完成してくれた。やがて、その作品をクラスのみんなで読み会う中で、大きくなったら、まだ元気なおばあちゃんを連れて、中国に行き対面させてほしいと、激励された。
 やがて彼は大学に進学し、留学先を北京大学にして、そこで中国語を習い、母親やおばあちゃんを連れて、中国のまだ見ぬ母親のお姉さんやその子どもたちと対面することができた。5年ほど前に、その時の写真を持って、母親と遠藤君が我が家まで訪ねてくれた。作文教育は、子どもたちを賢くするだけでなく、人と人のつながりも大切にしてくれる。

中国への旅

 この作品が一つのきっかけになり、本間繁輝さんを団長にして、田中定幸さんと私が副団長で中国に出かけた。日中文化交流協会の援助もいただきながら、中国の人たちと有意義な交流が出来た。
 今回取り上げられなかった作品については、私のホームページ「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」「低学年の作文」「中学年の作文」「高学年の作文」「確かな文章表現力」等を参照していただきたい。
 なお、私に作文教育を楽しく実践できたのは、サークルのおかげである。1970年に始まった豊島作文の会も、今年で48年目に入る。月に1回の例会が、この6月で、527回を迎える。(サークル紹介で、6月号に載る)このサークルで仲間とともに歩んだ蓄積は、私に作品の見方をたくさん教えてくれた。
 なお、最初に取り上げた石田さん達は、今年還暦を迎える。10年ぶりに3クラス合同の同窓会を開いてくれることになった。4月22日、池袋に久しぶりに集まる。楽しみだ。

この作品について

 「作文と教育」の原稿として、日色さんから依頼があった。このようにまとめたのだが、2013年の4月号に同じような実践報告が載っているといわれてしまい、この報告は、出さないことにした。それにしても、日色さんは、人の実践を、よく読んでいるなと感心した。彼にまとめていただいた個人文集を開けてみたら、半分くらいにている文章であった。

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