子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月7日(土)人権教育の大切さ

4月7日(土)人権教育の大切さ

 平和教育の代わりに、人権教育を、後半努力したので、それを載せることにした。昨年の福島大会で提案した中味だが、抜粋してコンパクトにまとめたものである。まだ、この内容は、作文と教育には、発表していない。

中国から日本に来た 六年 女 子

 私は、四年前に中国の福建省から日本に来ました。学校は、堤小学校の二年生に入りました。その時、日本語がぜんぜんわかりませんでした。みんなが何を言っているかぜんぜんわからなくて、とってもこまりました。
 この学校に入ったときは、九月ぐらいに入りました。それで、二年生が終わったら、三年生になりました。三年の時は、心にきずがいっぱいありました。その時日本語が、少しわかってきたので、一人、二人ぐらいの人のわる口が聞こえてきました。
「中国に帰れよ。」
と言われました。その時の心の中は、とってもおこりたい気持ちになっていました。クラスのみんなが話している日本語の意味がわかります。でも、自分が日本語がしゃべれないので、おころうとしてもおこれないのです。ほんとうにくやしかったです。
 その時、日本語が話せないので、友だちもぜんぜんいませんでした。その時は、本当にさびしかったです。やがて、四年生になり日本語が話せるようになりました。友だちも二,三人ぐらいできました。その友だちが、二十分休みの時、あそびにさそってくれました。その時は、ちょっと楽しかったです。それでだんだん、友だちがふえていきました。言葉が、だんだんわかっていくうちに、友だちふえてきました。三年生と比べては、四年生の方が、楽しかったです。
 五年生になって、日本語がさらに、だんだんじょうずになってきたので、帰るときもあそびにさそってくれたこともありました。その時は、本当にうれしかったです。日本語を話すのも、自然に多くなりました。あわの移動教室の時も、班のなかまに、入れてくれて、楽しい思い出になりました。
 六年生になって、最高学年として、低学年のめんどうを見ることになりました。
 自分の日本語も上手になりました。教室のみんなもとても仲良しになりました。私にとっては、日本語が上手になって、友だちがたくさんふえました。
 日本語が上手になったのは、日本語教室の先生たちが、教えてくれたからです。K先生やI先生やR先生に教わりました。
 私は、日本に来て、四年目になりました。私のあとに、Tさんの姉弟がきました。私は、Tさんに、中国語で話しかけました。Tさんも話しかけてくれました。私も四年前に、日本語がぜんぜんわからないときに、すでに日本に来ていたGさんに、中国語で話をかけられました。私は、その時、ほっとしたことを思い出しました。おそらくTさんもほっとしたにちがいないです。
 私は、中学生になっても、友達をたくさん作って、日本語がもっと、じょうずになりたいと思っています。

定年退職して

 定年退職して、残り5年間再任用と再雇用で勤めた学校が、同じ墨田区の中でも、まったく違う環境に子どもたちが通う堤小学校(現在統廃合でなくなる)だった。40年近く前に工場跡に大きな都営住宅ができ、そこにできた学校だった。1番児童数が多いときは、700人を超すような学校が、私が異動したときは、150人くらいの規模になり、5年間の勤務を終えて、その学校も近くの学校へ吸収合併された。通い出して一番驚いたことは、休み時間になると、中国語でしゃべり合う子どもたちが、結構いたことである。都営住宅であるので、中国残留孤児の2世、3世が優先されて入居していた。出稼ぎで日本に日本に来た中国人や、経済的に大変なシングル家庭の児童も優先されて入居していた。
 最初の3年間は、少人数算数を担当したのだが、時間に余裕があり、一年から六年までの作文を、週1時間担当することをお願いした。そのかわり、担任は、日記を子どもたちに持たせて、週一回は子どもに心に残る出来事を書かせて、その作品を読んでほしいとお願いしておいた。私もその日記帳を読ませてほしいと伝えておいた。その日記帳の文章を元に、作文の授業をしますので、たまには、後ろで見学して下さいと条件を出しておいた。次の作品は、1年間書き方を学んだ六年生が、人権集会で読み上げ、「卒業文集」の中に残した作品である。
 日頃落ち着かない子どもたちも、この集会になると、みんな静かに聞いていた。

「人権集会」を進めるにあたって(案)堤小研究推進委員会

 これまで言われ続けてきた堤小児童の実態は、語彙不足も関係し「うるさい」「死ね」等と言う言葉がすぐ出て、自分の今の気持ちや、生活、人間関係をていねいに捉え表現できていない傾向があるということである。(この内容は、これからの教育活動を通してより具体的に明らかにする課題である。)
 そのため「聞く」「話す」の課題においても、友だちや先生の話をしっかり聞けない、また単なる「おしゃべり」はできるが、人前で筋立て(構想を立て)て話すことが苦手である。さらに正当な話をしてもちゃかされるなど、個としても集団としても育ちづらい傾向が見られる。
 こういった課題に少しでも切り込むため、一人ひとりの表現力を豊かにすると同時に集団の質を高めるため「人権」という視点をすえ「集会」を位置づけたい。
・十二月初旬に堤小「人権集会」を設定する。
・各学年一点ずつ作品を発表することによって、堤小学校の子ども達がどんなことに目 を向け大切にしたらよいのか、その方向を指し示す場として「人権集会」を開く。
・人権をくらしのあらゆる場面で事実に基づいて、具体的に見つめる。
・人権の視点に立って、子どもの文章表現力を高める。
・作文を聞き取る側として、認め合う
・つながり合う・支え合う集団の高まりを導く。
・人権の視点のある作品を各学年1点以上持ち寄り、作品分析をし合う。
・どの作品を発表に使うか決め、その作品を分析し合う。
・十二月の「人権集会」までの間に、どの作品を発表し合うのか決めて、その児童に準備をさせる。
 この人権集会を立ち上げるのに、私の異動と同時に、学校全体で取り組んだ。
 次の作品は、いじめが進行中の作品であった。さすがに「人権集会」では取り上げられないので、人権委員会のメンバーが中心となり、クラスの中で取り上げてもらった。
 担任と、人尊のメンバーが、一緒に授業を参観して、最後にそれぞれが発言をすることになった。

私は負けない 六年   女子

 今から六年前、私が堤小学校に入学した頃の春、保育園では言われたことのないような言葉を言われた。入学したばっかりの時、何人かの子に、
「Sちゃんは,どうして左手がないの。」
といわれました。わたしはいつも、
「お母さんのおなかの中に、忘れてきちゃったの。」
と言って答えました。私はこの時は、あまり左手のことで言われてなかったのに、二年生
になったときに、いろいろと悪口を言われるようになりました。何人かの子に,
「身体障害者。」
と言われました。私は,初めてこの言葉を聞いた時は、
(何を言っているのかな。身体って何、障害者って何だろう。)
 ずっと思いながら、学童クラブから、家に帰ってきました。私はこの時は,身体障害者という言葉を気にしていませんでした。けれど、さすがに何回も言われると、気になってしまって、お母さんに聞いてみました。
「ママ、身体障害者って、どういう意味なのかわかる。」
と聞きました。そうすると。お母さんは、私のところまで来て、やさしく言ってくれまし
た。「Sみたいに、手がない人や体が自由に動かない人のことだよ。でも、Sは、そういうことを言われても、気にしないで、前向きでいなさい。」
 私は、この言葉を聞いて、とても安心しました。
 それから四年後、私は小学校六年生になりました。これまでの四年間は、あまりいやな言葉は言われませんでした。だけど、六年になってから、いきなりいやなことを言われるようになりました。
 十二月四日、月曜日の図工の時間が終わって、教室にもどっていたとき、後ろからA君たちが、
「こいつにさわられたら、ゲームオーバーだ。」
と大きな声で言い出しました。
(何を言ってんだろうたち。うち何か言ったけ。)
 私はそう思いながら歩いていたら、A君といっしょにいたB君やC君がいきなり走ってにげてしまいました。私は意味がわかんなかったので、A君たちを走って追いかけました。けれど私は、足がおそいので、にげられてしまいました。
 次の日学校に行ったら、A君の言ってたことが、クラスの男子に広がっていました。
(うわ。ヤバイなって言うより、何でこんなに広がってんの。)
 私は、そう思いました。さらにD君には、
「うわ。バイキンマン来るな。」
と言われました。私は、何で言われたのかが、全くわからなかったので、気にしていませんでした。だけどその日の五・六時間目の家庭科の時間に、作業しているところに、Dくんがきて、わたしの座っていたいすをひいて、わたしをイスから落としました。私は、涙目になりながら、
「おいD。何でこんなことをするんだよ。」
とおこって言いました。すると、D君は、
「おれ、やってねえよ。」
と言い返してきました。私はその後、
(またなんかやられないかな。やられたらどうしよう。)
と思って、とても不安で集中して作業ができませんでした。
 次の日のそうじが終わった後、やはり同じ事を言われました。
(まったく。こりないやつだな。)
と思いながら、言葉の意味が知りたくて、男子をおいかけまわしました。後ろのほうから、
「S、相手にしないほうが良いよ。」
と言う声が聞こえたので、ふり返ったら、姉のAがいました。私は、Aに服を引っ張られながら、教室にもどりました。
(男子の言っている言葉も気になるけど、Aの言うとおり相手にしなければいいのかな。)
と思いながら、五時間目の授業を受けました。

 この児童は、双子である。同じクラスに、この作品の中に出てくる、姉にも事前に妹の手のことで、6年間の思いを作文にしていた。この作品を読み終わったあとに、姉が、妹が6年間いじめに遭っていたときの悲しい気持を、具体的に読み上げた。最後は、泣きながら、一生懸命に読んでくれた。クラスの中は、みんな静まりかえっていた。いじめをした子どもたちが、次々に立ち上がり、正直に自分の誤りを認めた。

引きこもり問題が社会問題

 単純なからかいが、当事者にとっては、致命的ないじめになると言うことを、クラス集団が自覚した。それが原因で、登校拒否になり、大人になるまで引きこもりになってしまう。「狭義のひきこもり」と「準ひきこもり」を合わせた広義のひきこもりは70万人と推計される(厚生労働省二〇一〇年)。いじめが原因で、命を落とす子どもたちも、いまだに続いている。

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