子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月9日(土) 横須賀薫さんの講演

5月9日(土) 横須賀薫さんの講演

 この講演会の記録は、我が理論研究会の会員である小山守さんが、今年の1月6日東京学芸大学の学生向けに行われた記念講演を、横須賀さんに誘われて出かけて、テープ起こしをして記録したものである。今回は、国分一太郎さんの活躍した時代をその生い立ちから、時代背景を含めて語ってくれたものである。私も国分一太郎については、それなりの知識を持っているが、これだけ丁寧にまとめて語っていただいたものは、出会ったことがない。小山さんのテープ起こしの労作にも感謝したい。このたびは、このホームページに載せさせていただくことも、横須賀さんに直接メールをして許可をいただいた。

国分一太郎がいた時代 

1 はじめに

 改めて皆さん、こんにちは。それからこの時期ですから、明けましておめでとうございます。50年大学で教えて、授業をずっとやってきたのですが、こんなに早く始めたのは、教師になって初めてです。今日はこんなにいらしていただいて恐縮しています。
私の仕事はちょっと格好つけて言うと、日本教育実践史の研究ということになるのですが、現場の学校の教師たちがどの様な仕事をやってきたかという事を直接その人にあたったり、文献などで調べたり、現場での事を調べて、それをみんなに伝えたりするようにしてきました。
 この授業は三回目になるので、ここにある通り、(スクリーンを指しながら)最初「斎藤喜博がいた時代」、昨年度「林竹二のいた時代」、今日は「国分一太郎がいた時代」ということで、日本の学校現場に影響があった人達についてお話ししてきました。知ったからどうなるかということではないのですが、教育現場、学校に若くして就職したばかりの人に「斎藤喜博」って知ってるかとか、「林竹二」は聞いた事あるかとか、「国分一太郎」ってどうだとか尋ねてもはかばかしい回答がありません。東京学芸大学を出たのに、そういうことを本当に知らないのでがっかりしてしまいます。是非教育実践に有力な影響を与えた教育実践家或いは、教育研究者について、それは聞いた事がないということがない、というようなことはなくしてほしいなと思って話してきました。

2 国分一太郎の略歴と歴史的背景

 (写真を示して)こういう中々いい男、ハンサムですね。これは多分60代の肖像でないかと思いますけれど、山形県の東根町、今の東根市に生まれて、家は理髪業なんですけれども、江戸時代、藩政時代から殿様の髪を結ってきたという家柄でした。今では理容業という大変大衆的になりましたけれど、かつてはそういう仕事だったようですね。
(国分一太郎は)それを継ぐ家柄だったのですけれども、小学校を終えると山形師範学校に進学します。この時代は、前々回に取り上げた斎藤喜博もそうだったのですが、家が貧しいと言った方がいいのか、それほど豊かでないという場合で、勉強が良くできる子は師範学校に進んだのです。師範学校というのは戦後に大学になって、この東京学芸大学もそうだし、宮城教育大学も、山形大学教育学部もみんなそうですけれども、大学の姿に変えたのですけれども、良いか悪いか別としてこの時代は、進学が家の経済状態に非常に左右される時代だったので、師範学校を出て教師になっていくということは、今の大学で養成することとは随分違うということです。帝国大学進学とは違ったコースを作った。ですから師範学校には非常に優秀な生徒達が集まった所だったわけですね。
国分一太郎は、山形師範を1930年(昭和5年)に卒業して新任教師になっていくわけです。この1930年は非常に大事な年で、国分一太郎が書き残している物には、1930年に卒業した人たちとその前の人達とは大分違うということを言っていました。ということは、1929年元号で言うと昭和4年ですけれども、世界大恐慌が起きます。そしてそれが日本に波及してきて、非常に経済的不況が全国的に拡がるという時期が1930年、ここで産業が非常に影響を受けるわけです。斎藤喜博も同じ1930年に小学校の教諭になるのですけれども、今もやっぱりそうだと思うんだけれども、学校の教師の仕事というのも、その時代の社会的、経済的状況に非常に左右される。その時その時は毎日毎日子ども達とどうしようかとか、そういう事で明け暮れていくんですけれども、巨視的に見ると世界的な社会の変化、或いは状況に非常に影響されるものだと思います。特に1930年から始まる世界恐慌、これがやがて世界大戦につながっていくわけです。
 今、世界は非常に不安定ですね。これはもっと他の講義で取り扱われると思うのですけれど、私は大変心配しています。ちょっとした引き金で大不況や大戦争がひろがらないとは限らない、そういう状況があって心配しています。もちろん1930年代と比べれば、抑制する力も強くなっていますけれども、何か強い力を持っている人が思いつきで変なことをやっちゃうということが続発しているのを怖いと思っていますが、皆さんもこれから学校現場に入っていく人が多いと思いますが、そういう状況が学校現場にも影響していくのだということを覚えておいてほしいなと思います。

3 国分一太郎と長瀞小学校、そして想画との出会い

 国分の初任校が長瀞小学校といいます。今は東根市に合併されているのですが、当時は長瀞村です。国分は優秀なので山形師範学校の付属小学校に行かないかと薦められたそうですけれども、実家の面倒をみなければいけないというので、近いところに通える所にしてくれということで長瀞小学校に採用になるのです。この小学校は絵画教育の研究が活発な学校だったのですね。これ今は使われない言葉ですが、「想画」ということで有名な小学校だったのです。当時、三大想画教育校というのがあって、島根県の馬木小学校、三重県の早修小学校、それに山形県の長瀞小学校なのです。ここでは、美術教育というのは、この時期まで、圧倒的に「臨画」と呼ばれたやり方でした。「臨画」というのはお手本をなぞるという図画教育だったのですけれど、その後赤い鳥が出てその時代に自由画というのが提唱されます。それに対して、ただ自由に描いているのではなくて生活を描かせねば
いけないという「生活画」が生まれてくるのですけれども、「想画」というのは不思議な名前で、なんでこんな名前がついたのかというのは謎に近いのですけれども、生活画の系統だと説明されています。たまたま長瀞小学校はそういう子ども達に生活を描かせる、そういう教育に非常に熱心な学校だったのですけれども、それだけではなくて、この学校では戦後昭和20年代までこういう教育が続いていて、子ども達の絵が残っています。八百何十枚ともいわれているし、九百何十枚ともいわれているのですけれど、その保存に尽力された方と親しくしていたものですから、その事情をよく聞いているのですが、それが最近、「画文集昭和の記憶」という本になって出版されています。これが図書館にあるのではないかと思いますけれども、なければ後で買ってもらうように言っておきますけれども、「昭和の記憶」という題は、その地域の人たちの郷土自慢という色彩が強くて、私はあまり賛同できないのですが、本自体は教育実践の遺産として大事なものです。
国分はこういう熱心な学校に配置されます。これは、皆さんも学校の教育に入っていく人が多いと思いますが、初めてどういう学校に採用になったかというのはその人の教師としての生涯にすごく影響があるのですね。良くも悪くも、悪くもという言葉を入れたのですけれども、どういう校長がいて、どういう教師達が子どもの教育に熱心に取り組んでいるかという事が、初任の教師の将来の事に影響する事があるんですね。前々回の斎藤喜博もその地区で熱心に教育に取り組んでいる学校が初任校になって、そこから研究を深めています。国分一太郎もそういう意味で生活画、想画を熱心に取り組んでいる学校で教師として出発したわけで、当時、国分一太郎は生活画の指導と作文指導に熱心に取り組んでいました。

4 生活綴り方の源流、そして教育界への影響

図画の教育もそうですが、作文教育にも歴史がありまして、後に「生活綴方」と呼ばれるようになるもの、これに国分一太郎は大きな役割をはたすのですけれども、それにも歴史があります。
学校の教師になってぶつかるものには、その都度、その都度こんな事があったりとか、その時代時代に流行があったりするのですけれども、それも一つ一つが歴史という物を持っているんですけれども、歴史を持って流れてきている物を新任の時には受け止めていく、影響を受けていくというものなので、たまたま国分一太郎は図画教育、美術教育の改革と綴方教育の改革を共に受け止めていく、そういう立場にたつことになりました。
生活綴方の源流という物には、A B C Dと四つあると言われています。それまでは図画の方では「臨画」といって、お手本をなぞると言いましたが、綴方の方も同じで、課題があって、その課題というのは題のことですけれども、「友と飛鳥山へ花見に行く」という題があって、実際に花見に行くという体験がなくても、「友と飛鳥山の桜を見にいく」という題で文章を書く、そして決まりがあって、「こうこうこういう約束をして、こうして桜を見て・・・。」というもので、小学生でも「お酒を飲んで・・・」というような文章をとにかく並べる、という課題綴り方。それに対して、明治末から大正初期に芦田恵之助が出てきて、「随意選題綴り方」というのを提唱する。「随意」というのは「自由」という言葉に置き換えてもよいものですが、芦田という人はハイカラな人ではなかったので、「自由」という言葉ではなくて「随意」選題綴方という風に、まあ、ここをもって「生活綴方の始まり」という説を唱える人がいますが、私は子どもの文体、文章の種類が違うということで、「それは違うのではないか。まあ始まりには違いないけれども本質的には違うのではないか」と言っておきます。
 その次に、皆さんもどこかで名前を聞いていると思いますが、大正期になると鈴木三重吉という小説家が「赤い鳥」という雑誌を作って、童謡の方は北原白秋という有名な詩人が担当するのですけれど、童話と童謡を子ども達に提供すると同時に、子ども達の作文を募集して、鈴木三重吉がみて良いと思う物を添削して赤い鳥に載せる、ということをしました。で、これが学校にものすごく影響を与える。子ども達の投稿作文、投稿詩、北原白秋は「児童自由詩」と名づけましたが、ここには文章練習ではなくて、子ども達のリアルな生活が文章や詩の中に現れてくる。こういうのが始まるのは、学校ではなくて、文学者が始めた児童雑誌だったのですね。これがやがて学校に影響を与える。という風になる。それから、もう一つ、昭和に入ると社会意識、社会運動の影響が非常に強くなってきて、文学系統から社会系統へと転換することが起こります。この代表をしているのは、小砂丘忠義(ささおか ただよし)、高知県から出てきた教師の創刊した「綴方生活」という雑誌。ここが生活と子どもの作文を結びつける重要な舞台になる。だから、遡れば鈴木三重吉の「赤い鳥」、いよいよ始まるとなれば、小砂丘忠義の「綴方生活」。ここから生活綴方の仕事が始まり、生活重視の流れが始まったのです。その後、それをさらに本格的に進めたのが、東北の教師達で、これを「北方教育」とか「北方性教育」と言われる動きが出てくる。これは昭和に入ってからで、ここで活躍してリーダーになっていく一人が、国分一太郎、ここでお話ししている国分一太郎ということになってきます。
歴史、流れというのは、こういう風にある新任教師がぶつかっているものなのだけれども、歴史として切り取って見てみると、美術の教育でも大きな変革、作文の指導にも大きな変化、それがちょうど、ここ長瀞小学校でぶつかり、そこに国分一太郎という師範学校を出たばかりの二十歳になったかならないくらいの教師がぶつかる、という風になってくる。だから、教育実践というのは、小学校だったらそこだけの仕事という様に見えますが、また思えばそれで済んでしまうように思いますが、大きな目で巨視的に見ると、日本の社会、世界の国際的な動き、そういう物も影響している。皆さんも、これから教職に就いた時に、「そういうものの中で仕事をしているんだな。」ということを、チラッと思ってみるといいなと思っています。
 国分は、今言ったような歴史の流れにのり、そして、色々な社会的関心を持つ中で東北の若い教師達と一緒に、ややこの中でリーダーとなるのですけれども、東北における生活教育運動、生活綴方と書いていなくて、生活教育運動と書いてありますけれど、これについては後で説明しますけれども、この若手のリーダーの一人になってゆく、国分一太郎がリーダーではなくてリーダーの一人になっていく。

5 世界情勢と東北地方にける教育運動

 手元の資料には、左側に社会情勢、右側に東北における教育運動の流れを書いている。さっき言ったように1929年10月24日にニューヨークの株式市場で株の大暴落があって世界恐慌が始まります。今も日本の経済よりニューヨークの株式市場が株価の最大を記録したと大統領が気持ち良さそうに宣言したというニュースが流れていますけれども、経済学の専門家の間では大暴落、大恐慌必至と言っている人が非常に多くなってきている。私は経済学の専門家ではないですが、今はこの時代とよく似てきていると言う人は多いですね。嫌なことですがね。まあ、戦後日本、色々な事を言われながらも何とか発展してきたのですけれども、それが一つの落とし穴に近づいているという事には注意を払ってもらいたいなと思いますがね。1929年、ここまで非常に軍事的匂いが、動きが続いていくということも、大事な問題であろうと思います。日本が満州国建設という中国侵略をして、それから、ヨーロッパから「手を引け」と言われる中で、国際連盟を抜け出すという風な流れ。合わせてですね、この時期、東北地方では冷害凶作というお米が取れなくなる。これも今の皆さん方は、実感として分からないでしょうけれども、今の日本は米あまりの時代ですけれども、この時代はお米だけにたよっていた時代だったことが一つと、この時代のお米は冷害に弱い。しかも、西日本は干害、日照りでした。気候の変化に非常に弱かったお米ですね。お米以外にたよる物がない。もう一つは農家が、地主と小作という関係があって、農民が小作、大地主がいて子作を雇って農作業をさせて大きな収入を得ていたのですが、子作を大事にしていればいいのですけれど、農民は作った物をどんどん奪われてしまう。そこへ、大暴落から始まる世界恐慌。だから、1900年代、昭和の時代、東北の農村は恐慌と冷害凶作で大変な状況になる。代わる物が無い時代。どうするかというと娘、子どもを売るという身売りということが青森、秋田、岩手の地方、こういう農村が特に多くあった。それを教師から見ると、小学校の教師だとすると、教室で座っている6年生から今の中学校になるような女子生徒が、今朝までいたのが、次の日から来なくなる。どうしたのだろうというと、東京に身売りされていなくなるというような事が小学校の教師は伝えられるんですね。また、欠食児童という言葉があるのですけれど、弁当を持って来られない。朝から何も食べていない。水を飲んでいるだけだという子ども達が増えてくる、そうすると小学校の教師で良心的な教師達からすると、とても、「勉強しろ。」とか言っていられない。「どうにかしなければ」と考えざるを得ない状況に追い込まれていく。

6 東北の教師達の思いと国分一太郎

教師達の一つの工夫が、子ども達に「作文」、この頃は中学校以上では「作文」という言葉が使われていたのですが、小学校では「綴り方(つづりかた)」という言葉が使われていました。それで、小学校の国語は、明治33年、1900年に「国語」という教科が生まれました。小学校の国語は、「読み方」、「書き方」、「綴り方」というようになっていました。読み方、書き方、綴方というのが一本にまとまったというのが1900年、明治33年で国語という風になった。そうするとですね。読み方という物は国定教科書で勉強することががっちり決まっていたわけですね。書き方というのは、いわゆる書道、お習字ですね。文章じゃないのですね。文章の書き方が「綴り方」ですね。読み方というのは教えることががっちり決まっていたのに対して、「綴り方」の方は自由。教師にまかされていたというのが非常に良かったのですね。それでこの現実に直面した教師達は、「綴り方というものを通して子ども達を教育していこう」という風になる。たまたま入ってきた国分一太郎が、初任校の学校が絵の方で、それをやろうとするといった学校だった。国分一太郎は「作文を通して子ども達の生活を考えさせていこう」という教育に熱心に取り組むようになった。
 秋田の「北方教育社」というところで、「赤い鳥」の動きに対応していると考えた方がいいと思うのですけれど、成田忠久という人が、秋田のお豆腐屋をやっていたのです。お豆腐というのは、夜遅くから明け方までに作って、明け方に売りに行くのですが、お豆腐というのは午前中には売り切れてしまうのですね。今みたいにお店に卸すのではなく、「プップー、プップー」と笛を鳴らして町で売り歩くのですね。そうすると午前中には仕事が終わってしまうのですね。午後はひまなわけです。ひまな時間を子ども達の作文指導に当てようと思って、「北方教育社」という団体を作って、児童文や詩を載せる雑誌を出す。それで教師達に集まってもらって、綴り方の理論を扱う「北方教育」という雑誌も出版した。これが後々東北の若い教師達の集合の場所になっていく。
 今日、お話ししている国分一太郎は山形で育ったのですけれど、この動きの中に加わっていくという風に。このあたり(1934年 昭和9年)で更に今までとは違う、赤い鳥の綴り方系とも違う北方の現実を反映した綴り方という物が生まれてくる。というのがこの時代。子ども達に書かせるというのともう一つ文集というのを出すようになる。みなさんも卒業文集とか。学級文集とか知っていると思うのですけれど、文集というのがこの教師達の大事な武器になります。この頃、印刷はガリ版という印刷機があって、これは油を染みこませた紙に鉄筆で、鉄のヤスリ板の上で字を書く。ガリ・ガリ・ガリと音がするのでガリ版というのですが、謄写印刷という名前だと思います。今でも美術の方の道具として使われているのですが、今はコピー機が発明されてすたれてしまいましたが、私などは学生の時は、まだ、ガリ版の時代でした。学生運動では、「どこに集まれ。」とか、「どこに出かけろ」とかいうのはガリ版で配られる。これが昭和の時代の民衆の印刷方法でした。ですから、教師達は子ども達に自分達の生活を書かせる、と同時にガリ版で刷って文集にして学級に配る。そして、友だちの作品を読む。書くことで勉強し、読むことで勉強する。そして、自分たちの生活を考える。これが「生活綴り方」の基本となっているのです。
 これを造り出してきたのが、国分一太郎を含む若い教師達でした。国分一太郎が作った文集が、小学校5年生の「がつご(マコモ)」、それから3年生を受け持って「もんぺ」、これは子ども達だけではなく女の人も、男の人もそうですけれども足首のところで細くなり、ベルトではなくひもで縛るズボンで農作業で使う物ですね。「もんぺ」の子ども達が卒業して、次に受け持った子ども達に作ったのが「もんぺの弟」という学級文集です。文集というのは、日常を扱った子ども達の文章を集めた物という考えでいいのですけれども、教育という視点の中ではこういう風に定義されています。
「子どもの書いた文章、詩などを学校、学級の子ども、また父母などを読者対象として、教師又は、子ども自身が編集、印刷、発行する手造りの児童文化。児童文集ともいう。」
大正期に野村芳兵衛(のむらよしべえ)という人が、文集を学習の有力な手段に位置付け、それが東北の教師たちに影響を与えて有力な教育手段になっていったというわけです。今は普通に卒業記念文集という非常にきれいなものがありますね。どこかの業者に頼んで作ってもらうのだと思いますが、皆さんも持っているんじゃありませんか。この時代の文集というのは教師が作文を書かせて、あるいは詩を書かせて、それをガリ版で作って文集にして子供たちに配って返す。そして、それを読み合ってみんなで生活の事を考える。という形が出来上がる。それを作る上で国分一太郎という人が果たした役割は大きかったのですね。
それから、もう一つ大事なことは、昭和5年に大恐慌が始まることで教師たちの意識の中に、労働組合を作ろうという動きが出てきました。各地で教育労働組合を作るという動きが出てきた。現在の日本では、教員の組合というのは当たり前なのですが、この頃はすたれてしまっていることを、私は心配していますが。
国分は山形県内の東根から列車で通っていました。師範学校というのは全員寮に入っているのですが、国分が入学したときに寮が火事で焼けてしまって、寮に入れなかったので、汽車通学をしたのですけれども、汽車通学で少し年上の村山俊太郎(むらやま としたろう)という人物と非常に親しくなります。村山は詩を書いたりする文学青年だったわけですけれど、非常に社会意識の強い人で、山形教育労働組合の結成に関わるんです。そして、後輩の国分にも声をかけるわけですけれど、国分はちょっと顔を出すぐらいのことでした。この教育労働組合、学校教師の教育労働組合というのは、官権、権力がもう目の敵にして、作りかければすぐ弾圧して捕まえてしまう。という今では考えられない事ですが、これで村山俊太郎は学校の教師を免職になる。国分も警察に呼ばれたりするのですけれども、ちょっと関わったということで、行動は制限されないのですが、国分にとっては尊敬する先輩がこういう道に入っていったということが、すごい影響を受けた。だけれど、これはすぐ権力に弾圧されて潰されてしまうという事を知ったので、そういう道ではなくて、「子ども達の教育に力を注ぐ。」、教室の中で仕事をしようとなったんですけども、少し精神的な弱さもあったりしてノイローゼになって休職します。家の理髪業を継いでいた弟が急死して、家のことも心配になってノイローゼになったのですね。これを仲間が心配をして、ここまでやってきた実践をまとめて『教室の記録』という本にまとめて出版したのです。毎日の事がきちんと記録されているという物なのですけれども、これを出したために、この時、校長、国分、そして、国分と一緒に、許嫁(いいなづけ)になっていた山田ときという女教師の三人が免職になります。こういう時代だったのですね。
 この『教室の記録』というのは、私も持っていますが、本当に熱心な教師が子どもを教育しているという記録です。特段偏った意識を注入するような仕事ではありません。それが社会的に害悪があるという理由で学校から追放されることになる。
 それで、国分一太郎はですね。学校に戻ることはありませんでした。戦争中は中国に渡って、様々な仕事をするのですね。その中で非常に表現力が高いし、絵を描いたりしても非常にうまい。『戦地の子供』という本を出している。非常に良くできた中国の子どもの様子を書いた本です。で、これは文部省の推薦を受けるのですね。しかし、すぐこれは取り下げられるという風になる。
 さっき言った文集。これは子ども達の暮らしを詩や作文などを、ガリガリとガリ版で刷って子ども達に返す。そして、友だち同士で読み合う。そこで生活のことを一緒に考える。
 それと、各地の熱心な綴り方を指導する教師達と文集交換をする。これは普通にあり得ることですね。国分の教室ではこんな文集を出している。こんな子ども達だ。で、鳥取での峰池先生のところではこうだ、と文集交換をする。これが共産主義運動を組織したという疑いをかけられて検挙される。何百人という教師が治安維持法違反ということで起訴される。
 最近、この治安維持法という物がもう一度見直される。そういう節(ふし)が感じられるようになったという事だと思うのですけれども、これは教育関係者だけではなく、キリスト教の関係者とか、文学者とか、普通の何でもない。思想的に過激というのではなくて、普通に生活の改善とか社会の改善とかに取り組んだ人達が治安維持法という物を理由に検挙される。解散させられるということが昭和の時代の一つの流れのように事が起きてきた。国分一太郎はこれによって検挙され、裁判で執行猶予付きですけれども裁判で有罪の判決を受ける。そして、戦争が終わって、それは取り消されるのですけれども国分一太郎は教職に復帰しません。理由は、音楽が不得意でピアノが弾けなかったということですが、これはうそですね。音楽ができなくても、ピアノが弾けなくても小学校の担任になっても不自由なことはないのですが、今でもそのような教師は沢山いますけれども、音楽の時間は誰かに代わってもらうという先生いますよね。復帰しなかった理由は、やっぱり「教育界に対する不審」もあったし、「自分がもっと違う仕事にむいている。」という自覚があったのだろうと思います。

7 国分一太郎の業績

 国分一太郎の最大の業績というのは、戦後の教育界に綴り方、「生活綴り方」を復興させたという事なのです。
 1951年に、無着成恭編『山びこ学校』という本が出ます。これは、山形県の山形市に近い山元村の中学校(現在は上山市)の子ども達の作文を本にしたものです。この本になった作文を書いた生徒達は、私の一学年上の子ども達です。ですから、そんなに昔の話ではない。皆さんにしてみれば大昔の話にみえるでしょうけれど、私はこの本が出たとき横浜の中学生でした。よく覚えているのですが、私は中学三年で関西に修学旅行に行く際、今では新幹線で行きますが、当時は列車にゆられての旅行でした。その時、この『山びこ学校」という本を列車に乗って読んだという記憶があります。一学年上の山形の子ども達は、こんな事を考えていたのか。こんな生活しているのか、という記憶が私の中には非常に鮮明に残っているのですね。
 この「山びこ学校」という本が、いわば、日本の社会に非常に大きな衝撃を与えます。「戦後の子ども達が、現実をしっかり見て育っているんだ。」という例として、この本が迎えられる。そして、映画になったり演劇になったりする。社会が「こんな物を書かせられるわけがないじゃないか。どうして、こんなのができたんだよ。」という批判的な見方も出てきたところで、戦前の今まで話してきた生活綴り方運動が注目を浴びることになります。ほぼ同時期に、国分一太郎が『新しい綴り方教室』という本を書き、綴り方復興を訴えます。この後、「生活綴り方的教育方法」という教育方法の呼び声が高くなって「生活綴り方を中心にした教育」というのが、この後、非常に盛んになる。
 そして実践記録と呼ばれる著作がたくさん出てきますけれども、それらは「生活綴り方的教育方法」、生活綴り方を中心にした教育の成果が記録されたものでした。うした教育の普及の中心にあったのが、今日話題にしている国分一太郎ということになります。「日本作文の会」という専門の団体も作られ、これは今でも続いています。
 国分一太郎という人は、児童文学。子ども向けの読み物をたくさん書いている人で、今の時代の皆さん方が目にするようなものではないと思いますけれど、たくさん書いているということも付け加えておきます。

8 まとめとして

 最後に、国分一太郎の果たした役割を、簡単にまとめておきましょう。
 一番は、今言ったように「生活綴り方」という教育指導を提唱したことです。それで、生活綴り方というのは、どういう役割を果たしたのかというのは、もう古い時代のものではないかとも言われています。それは、間違い無く一つの見方ですが、私はここに書いたのは、藤原辰史著『給食の歴史』(岩波新書)から引用したものです。これは大事なことですから覚えておいてください。私はこの本を読んでいて、「あっ、これだ。生活綴り方はこれだ。」と思いました。
というように書いてあるのを見て、学校教育の教育実践のやり方、方法というものも変わってきて、もう今やインターネットとかパソコンとか、そういう物が重要になってきている。「子どもに文章を書かせて、文集を作って配って、そんな時代ではない。」という声がある時代です。それは正しいだろうと思います。が、どんなに食生活が豊かになったからと言って、子どもの貧困が続く限り給食の役割は重要だと言われているように、AIだとか情報が進んだからといって、子どもの学習というものにとって、「子ども達が自分で生活を見つめて、それを文章に、詩にする。そして、それを子ども達同志で読み合う。そして、考える。」ということが教育の原点、「子どもの貧困がなくならない限り、給食の役割はなくならない。」というように、どんなに学習の方法が改革されても、「子どもが子どもである限り、子どもが自分の生活を見つめて文章を書いて、そして、交流していく。」という教育の原点の意義はなくならない。それを提唱した国分一太郎達の「生活綴り方」の役割は、古くなったように見えてやっぱり無くならないだろうということが大事な点です。国分の果たした一つの役割だろうと思います。
 それから、もう一つは、国分一太郎が「教師の在り方」について、提言し続けた事は非常に大切だと思います。岩波新書に『教師-その仕事-』という一冊があります。これはちょうど私が皆さんと同じぐらい、大学に入った時に手に読みましたが、非常に大きな影響を受けました。一方では、教師の仕事として社会変革こそが大事だという激しい考え方がある中で、国分一太郎は「教育の仕事は急ぐ仕事か。急がぬ仕事か」という命題を立てて、「決して急がないということなんだよ。教育がいかにも教育であるらしい仕事のし方で、その相対性独自性を通して、社会進歩に寄与していくものなのです。」と言ったことに、私は非常に大きな影響を受けました。今、ここまでやってきた仕事は、国分さんの「教師-その仕事-」が原点になっているという事があります。それを皆さんに伝えておきたいと思います。
 三番目は、「文学や教育における地域性」、山形とか東根とかの大事さを強調していることでしょう。これはもう触れなくてもいいかなと思います。
 以上、しゃべりっぱなしで、今の講義のやり方には合わないかもしれませんけれど、皆さんにお伝えして、この人の名前の読み方ぐらいは忘れないで、というところです。
 また、この頃の状況が、いつでも決して良い事ばかりでないという時代、そういう中で先人の残した役割、果たした役割ということも頭に刻んでおいてもらいたいと思います。これから教職だけでない仕事に、皆さんは目指しているわけですが、できるだけ多くの人に教職に就いて欲しいと私は願っています。皆さんの様な人が子ども達のために良い仕事をしてくれることが、日本の社会を少しでも良くする、進歩させることだと思っています。ぜひ、良い仕事を学校の教師になってしてほしいと思っています。
 最後に、名前、私の名前でなくて、「国分一太郎」の名前を胸の隅にでもしまっておいてもらいたいと思います。
文字興し 綴り方理論研究会 小山 守

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