子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月8日(木)福島大会での提案原稿・後半

6月8日(木)福島大会での提案原稿・後半

やや長い題名(読みたくなる題名にする。)年 名前
( )
 なぜ、右のような題の文章を書いてみたいのか、そのわけもかじょう書きに書く。

①
②
③

人権集会当日(2006・12月)の作品と、そのほかの作品
各学年一作品 作品のあとの、小さな字で書かれた文章は、人権委員会で作品を読み合い、それを榎本がまとめたもの。当日の集会には、担任が、この作品を読み終えた後に、1~2分間この文章を参考にして、コメントを述べた。

私は、バングラディッシュ人です    二年  女 子

 わたしのかぞくは、五人かぞくです。おとうさんとおかあさんとおねえちゃん二人です。とてもやさしいです。みんバングラディッシュ人です。おとうさんとおかあさんとわたしは、日本の人とくらべると、色が黒いです。それで、たくさんのおともだちから、いじわるをいわれました。
「くろこげ。」
「きもい。」
「いっしょにあそびたくない。」
 わたしはくろいけど、そういわれたら、とってもいやなきもちになりました。わたしは、おこって、
「なんでそういうの。」
といいました。すると、おともだちは、
「くろこげだから。」
といいました。わたしは、
「くろこげでわるかったね。」
といいかえしました。そしたら、また、
「うん、わるかったよ。」
といってきました。わたしは、ないてしまいました。とてもいやなきもちになりました。 そのことを、おとうさんに話したら、やさしく、
「きにしないで。」
といって、わらってました。
 だからきにしませんでした。そういわれるのは、やっぱりいやです。いわないでほしいです。わたしは、おとなになっても、かぞくみんなで、日本でくらしていきたいです。みんながすきだからです。これからも、なかよくしてください。

 五人家族のバングラディッシュ人ということが、よくわかりました。家族の人が、お母さん以外、日本の人と比べると、色が黒いのですね。たくさんのおともだちから。「くろこげ。」「きもい。」「いっしょにあそびたくない。」といじわるされるんですね。そういわれたときは、いやな気持ちになることもわかりました。「なんでそういうの。」とちゃんとお友達に、言っているのも良いです。「くろこげだから。」といわれても、「くろこげでわるかったわね。」といいかえしているところも、えらいです。おともだちに、「わるかったよ。」といわれたので、くやしくてないてしまったんですね。その悔しいことを、おうちに帰って、お父さんに話したことも、大切です。お父さんは、「気にしないでね。」とやさしく言って笑っていることも、よくわかりました。お父さんに言われて、気にしないようにしているけど、やっぱりいやなんですよね。大人になっても家族みんなで日本で暮らしていきたいし、みんなと仲良くしていきたいのですね。堤小学校に通っているみなさんは、 たくさんの外国から来た人と、お友達になっています。はだの色や髪の毛や顔つきや言葉のことで、お友達のことを傷つけないように、仲良く暮らしてください。

友だちにらんぼうしたこと    四年 男 子

 ぼくは、二年生頃から、四人の友だちをいじめている。げんいんは、中学二年の兄ちゃんだ。兄ちゃんは、いつもいつも、わけもなくたたくし、けるし、だいきらいだ。たとえば、この前、いきなり後ろからのっかられたことがある。でも、やっぱり、ぼくの兄ちゃんだ。それでも、いじめられたあと、
(兄ちゃんなんて、いなきゃいいのに。)
と思いっきり泣きながら思う。それで、やりかえすにもかなわないから、自分よりもよわい弟をいじめる。すると、弟が泣きながら、すごいスピードでリビングに走っていって、母に、
「兄ちゃんがいじめたあ。」
とと大声でわめいて、母が弟にまけないような声で、
「K、いじわるしない。」
と言ってきた。
 その時、ぼくと兄ちゃんのへやでテレビを見ていた父も、ぼくに向かって、少しむっとした顔をした。本当はぼくが悪いのに、兄ちゃんにいじめられて、そのはらいせで、弟をいじめてしまう。
(もうやだ。)
自分がいやになった。そのまま学校について、まだイライラがのこったままなのだ。そんなときに友だち四人と校門であう。AくんとBくんが、
「今日、あそぶの。」
と二人とも同じようなしつもんをしてくる。すると、ぼくは、
「おれ、あそべないから。」
なんてウソをついてしまう。そのあと、ウソだと言って、二人の頭をこづいてしまった。二十分休みの時、四人いっしょにかいだんを下りて、なかにわにあそびに行く。
 毎回やっているとは言わないが、だれかにあだ名をつけて、その場をにげまわっている。よく考えてみれば、これも一種のいじめだと気づいた。
「やっぱり、これやめよう。」
とみんなに言った。このようなことを、一日一日くり返している。
 じっくり考えてみると、ぼくのストレスは、兄ちゃんから来ている。だけど、兄ちゃんも、もしかしたら、中学校で、クラスの人にいじめられたり、からかわれたりしているのかも知れない。そう考えると、それがげんいんで、ぼくがからかわれてるのかも知れない。兄ちゃんにもやめてほしいけど。だからぼくが、友だちをからかうのをやめれば、友だちも安心するだろうし、兄ちゃんのことは、そのうちかいけつして、まず自分をあらためていくことだと気づいた。
 だから、ぼくをきらいにならないでくれる友だちを、大切にしたいと思う。

 自分から、正直にいじめてしまったことを、書くことは大変な勇気がいります。しかも、二年生頃から、いじめていることを思い出していることが偉いのです。その原因が何かと考え、四才ちがいのお兄さんが、いつもわけもなくけったりすることで、いつも自分のイライラが増えてしまいます。それで、おうちでは、自分より弱い弟くんをいじめてしまうと、気がついたことも偉いです。そういう自分を、「(もういやだ。)自分がいやになった。」と書いています。お兄ちゃんにいじめられたまま、学校に行くと、イライラが残っていてつい友だちにも、素直になれずにからかったり、うそをついてしまったり、あだ名を言ってからかったりしてしまうそうです。しかし、今回このことを考え書いていくうちに、これもやはり、自分のイライラを学校の友達にもしている自分に気がつきました。だから、「やっぱりこれはやめよう。」とみんなに言うことによって、なんとか直そうとしています。でもその繰り返しをしてしまっています。しかし、今回書きながら、お兄ちゃんも学校でからかわれているのかも知れないと考えたのです。だから、自分が弟や友だちをからかうのをやめれば、安心するだろうと気づきました。だから最後の、「ぼくを嫌いにならないでくれる友だちを大切にしたい。」と結んでいます。みんなの前で、これだけ書いて発表した事は、素晴らしいことです。あとは、いじめをやめることですね。

中国から日本に来た 6年 女 子

 私は、四年前に中国の福建省から日本に来ました。学校は、堤小学校の二年生に入りました。その時、日本語がぜんぜんわかりませんでした。みんなが何を言っているかぜんぜんわからなくて、とってもこまりました。
 この学校に入ったときは、九月ぐらいに入りました。それで、二年生が終わったら、三年生になりました。三年の時は、心にきずがいっぱいありました。その時日本語が、少しわかってきたので、一人、二人ぐらいの人のわる口が聞こえてきました。
「中国に帰れよ。」
と言われました。その時の心の中は、とってもおこりたい気持ちになっていました。クラスのみんなが話している日本語の意味がわかります。でも、自分が日本語がしゃべれないので、おころうとしてもおこれないのです。ほんとうにくやしかったです。
 その時、日本語が話せないので、友だちもぜんぜんいませんでした。その時は、本当にさびしかったです。やがて、四年生になり日本語が話せるようになりました。友だちも二,三人ぐらいできました。その友だちが、二十分休みの時、あそびにさそってくれました。その時は、ちょっと楽しかったです。それでだんだん、友だちがふえていきました。言葉が、だんだんわかっていくうちに、友だちふえてきました。三年生と比べては、四年生の方が、楽しかったです。
 五年生になって、日本語がさらに、だんだんじょうずになってきたので、帰るときもあそびにさそってくれたこともありました。その時は、本当にうれしかったです。日本語を話すのも、自然に多くなりました。あわの移動教室の時も、班のなかまに、入れてくれて、楽しい思い出になりました。
 六年生になって、最高学年として、低学年のめんどうを見ることになりました。
 自分の日本語も上手になりました。教室のみんなもとても仲良しになりました。私にとっては、日本語が上手になって、友だちがたくさんふえました。
 日本語が上手になったのは、日本語教室の先生たちが、教えてくれたからです。K先生やI先生やR先生に教わりました。
 私は、日本に来て、四年目になりました。私のあとに、Tさんの姉弟がきました。私は、Tさんに、中国語で話しかけました。Tさんも話しかけてくれました。私も四年前に、日本語がぜんぜんわからないときに、すでに日本に来ていたGさんに、中国語で話をかけられました。私は、その時、ほっとしたことを思い出しました。おそらくTさんもほっとしたにちがいないです。
 私は、中学生になっても、友達をたくさん作って、日本語がもっと、じょうずになりたいと思っています。

 四年前に日本に来てから、堤小に二年生のときに転校してきました。その時には、日本語が、まったくわ からず、みんなが何を話しているのかわからなくて、くやしい思いをしています。三年生になり、日本語が少しずつわかってきたのです。その時に。「中国に帰れよ。」という悪口を言っている人がいたのです。ひど     いことを言う人が、お友達にいたのです。本当は、文句も言いたかったのですが、まだ日本語では、しゃべれないので、悔しい気持ちだったのです。四年生になり、日本語が話せるようになり、友だちも二,三人増えていったのです。お友達が、休み時間にあそびを誘ってくれたのです。友だちもだんだん増え、日本語も少しずつ上達し、だんだん楽しくなってきました。五年生になり、日本語もさらに上手になり、帰りもあそびにさそってくれるようになったのです。粟野移動教室も班の仲間になり、楽しい思い出が作れました。六年生になり、低学年のめんどうも見られるようにもなりました。こんなに日本語が上手になったのは、日本語教室の先生方の名前を書いているところもうれしいです。Oさんのあとに、Kさんが、転校して来た時に、中国語で話しかけたことは、素晴らしいです。自分が初めてクラスにいたときに、郭さんが中国語で話しか けてきてくれたときのほっとしたことを覚えていて、自分も自然に話しかけたのです。中学生になっても、さらにお友達を作り、日本の生活になれ、中国と日本の友好につながっていってほしいです。
以上が、人権集会に読まれた作品です。

私は負けない 六年   女子

 今から六年前、私が堤小学校に入学した頃の春、保育園では言われたことのないような言葉を言われた。入学したばっかりの時、何人かの子に、
「Sちゃんは,どうして左手がないの。」
といわれました。わたしはいつも、
「お母さんのおなかの中に、忘れてきちゃったの。」
と言って答えました。私はこの時は、あまり左手のことで言われてなかったのに、二年生になったときに、いろいろと悪口を言われるようになりました。何人かの子に,
「身体障害者。」
と言われました。私は,初めてこの言葉を聞いた時は、
(何を言っているのかな。身体って何、障害者って何だろう。)
 ずっと思いながら、学童クラブから、家に帰ってきました。私はこの時は,身体障害者という言葉を気にしていませんでした。けれど、さすがに何回も言われると、気になってしまって、お母さんに聞いてみました。
「ママ、身体障害者って、どういう意味なのかわかる。」
と聞きました。そうすると。お母さんは、私のところまで来て、やさしく言ってくれました。「Sみたいに、手がない人や体が自由に動かない人のことだよ。でも、Sは、そういうこと を言われても、気にしないで、前向きでいなさい。」
 私は、この言葉を聞いて、とても安心しました。
 それから四年後、私は小学校六年生になりました。これまでの四年間は、あまりいやな言葉は言われませんでした。だけど、六年になってから、いきなりいやなことを言われるようになりました。
 十二月四日、月曜日の図工の時間が終わって、教室にもどっていたとき、後ろからA君たちが、
「こいつにさわられたら、ゲームオーバーだ。」
と大きな声で言い出しました。
(何を言ってんだろうたち。うち何か行ったけ。)
 私はそう思いながら歩いていたら、A君といっしょにいたB君やC君がいきなり走ってにげてしまいました。私は意味がわかんなかったので、A君たちを走って追いかけました。けれど私は、足がおそいので、にげられてしまいました。
 次の日学校に行ったら、A君の行ってたことが、クラスの男子に広がっていました。
(うわ。ヤバイなって言うより、何でこんなに広がってんの。)
 私は、そう思いました。さらにD君には、
「うわ。バイキンマン来るな。」
と言われました。私は、何で言われたのかが、全くわからなかったので、気にしていませんでした。だけどその日の五・六時間目の家庭科の時間に、作業しているところに、Dくんがきて、わたしの座っていたいすをひいて、わたしをイスから落としました。私は、涙目になりながら、
「おいD。何でこんなことをするんだよ。」
とおこって言いました。すると、D君は、
「おれ、やってねえよ。」
と言い返してきました。私はその後、
(またなんかやられないかな。やられたらどうしよう。)
と思って、とても不安で集中して作業ができませんでした。
 次の日のそうじが終わった後、やはり同じ事を言われました。
(まったく。こりないやつだな。)
と思いながら、言葉の意味が知りたくて、男子をおいかけまわしました。後ろのほうから、「S、相手にしないほうが良いよ。」
と言う声が聞こえたので、ふり返ったら、姉のAがいました。私は、Aに服を引っ張られながら、教室にもどりました。
(男子の言っている言葉も気になるけど、Aの言うとおり、相手にしなければいいのかな。)
と思いながら、五時間目の授業を受けました。

 この最後の作品は、現在もいじめが進行中であり、全校集会で扱うのは、望ましいことではないと決まり、クラスの中で読みあい、話し合いを持つことにした。担任と、人損のメンバーが、一緒に授業を参観して、最後にそれぞれが発言をすることになった。
 このことがきっかけになり、クラスの中では、いじめはストップした。
 五年目の年に出てきた人権集会で読まれた作品

ぼくの母は、卒業式には来ない  六年  男子  

 僕は、今、父と姉二人の四人暮らしです。でも前は、父ではなく、母と四人で暮らしていました。 僕は、母の知り合いの家に泊まっていました。 そのとき、僕はまだ、五才でした。 遊んで疲れたのか、母のヒザで、寝てしまいました。 少したち、僕が、起きて前を、見ると、 変なおじさんがいました。僕は、母に、
「この、おじさんだれ。」      
と聞きました。母は、
「Kのパパだよ。」
と、いきなり、言われたので、僕は、ビックリしました。
約束が破られてしまった
 それから、次の日、僕は、父と母と姉二人の五人家族にもどって、暮らすことになりました。でも、僕は、
(うれしいけど、お父さんって呼びずらいなあ。)
と思いました。
 数日後、久しぶりに家族で、食べに行く予定になっていました。
 次の日の夜、父は、約束の時間には、帰って来ませんでした。でも、それは、しょうがない事なのです。父は本当は、帰って来たいけど、仕事が忙しいから帰って来れませんでした。母が、怒って、
「出ていく。」
と言って、お金とカードを置いて出ていこうとしました。僕は、
「出ていかないでよう。」
と泣きながら言いました。でも、母は、
「ダメ」
と言われました。僕は、
「だったら、おれも、連れてってよ。」
と言ったけれど、母は、
「ダメ」
と言ってそのまま、出ていってしまいました。僕は、父が、帰って来るまで、ずっと、家で泣いていました。姉二人は、だまって、ぼくといっしょにいてくれました。
保育園の卒業式
 僕は、保育園の卒業式は、
「来るかなあ、来るかなあ。」 
と、母が来ることを、ずっと思ってました。でも、母は来ませんでした。その代わり、父が卒業を祝って、来てくれました。
堤小への入学
 一年生の、入学式にも、母は来ませんでした。その代わり、父がまた来てくれました。その時に、僕は、
「もしかして、鹿児島に帰ったのかな。」
と思いました。母のふるさとは、鹿児島県なのです。父も、同じ鹿児島県出身です。
「もう、一生会えないのかな。」
と思いました。でも、会えるチャンスが来ました。
鹿児島行きの話し合い
 夏休みにはいる少し前に、父が、いきなり僕に向かって、
「お姉ちゃんたち、呼んできて。」
と言いました。僕は、二人の姉の部屋に行き、父がいるところへ連れていきました。父が、
「鹿児島に帰る。」
と、みんなに言いました。僕は、
(もしかしたら、お母さんに会えるかもしれない。)
と思いました。だから僕は、
「行く。」
とすぐに返事をしました。二人の姉は、予定があるかわからないので、すぐには返事はしませんでした。
 それから、何日かして、この鹿児島行きは、実現することになりました。
久しぶりの鹿児島県への旅行
 父は、鹿児島に住んでいる母の妹に、ちょくちょくメールをしていました。僕からみると、おばさんに当たります。いよいよ六年生の夏休み、家族みんなで、鹿児島に旅行に行くことになりました。僕は、
(よっしゃあ、やっとお母さんに会える。)
と思いました。僕の、心の中で、はしゃいでいました。
 ぼくたち家族は、飛行機で羽田から、鹿児島空港に行きました。着いてからは、レンタカーを借りて、とまるホテルまで行きました。
(いよいよ、お母さんに会える。)
と思うと、心がドキドキしてきました。しかし、母の妹は、母とケンカをしていました。理由は、はっきりしていませんが、母とは、会えませんでした。
僕は、とてもがっかりしました。
あと四か月で卒業式
(じゃあ、小学校の卒業式にも、来ないのかなあ。)
とずっと悲しい気持ちに、なりながら帰りました。今では、母の事は、忘れて、楽しく暮らしています。母より、父の方が、僕や、姉二人を、大事に育てています。大事な家族です。でも、母との思い出や家族五人でいた、思い出を、いつまでも忘れたくは、ありません。でも時々、ほんとに、母に会いたいです。
 学校の生活は、父も母も知りません。父には、時々言いますが、母にも、知ってもらいたいです。でも、心の底では、また、五人で暮らしたいです。それが、かなったら、もっと、楽しい生活になるでしょう。
 人権集会では、学年一編を代表にして、全学年読んでもらうことにした。読んだ後に、担任が、なぜこの作品を取り上げたのかを、全校の前で発表した。朝会は、落ち着かない子が何人かいたのだが、この人権集会は、みんな静かに聞いていた。それだけ、友だちの文章には、関心があり、心が揺さぶられたのであろう。

あまり聞きたくなかった 4年女子  Y・K 

 二月十七日に、人権集会がありました。一年生から六年生までの人の作文で、えらばれた一人一人が読む集会でした。私が聞きたくなかったのは、六年生のKさんの作文でした。六年生の作文は、母がいないことの作文でした。私も父がいません。ようちえんの時からです。私は、楽しいことを考えて、六年生のかいとさんの作文を聞かないようにしましたが、父のことを思い出してしまいました。六年生のひとは、母がいないことですが、私は、父がいないのです。ようちえんの行事で、母の日や父の日がありました。母の日は、ようちえんで、私たちのいろいろなお母さんたちが、来てくれるぎょうじです。母の日の時は、母が来てくれました。父の日は、ようちえんを休んでいました。なぜなら、父がいないからです。私だけいないのは、とてもつらいからです。ようちえんは、年少、年中、年長があって、私は、年中からようちえんに入っていました。年中の時は、母の日は行きましたが、もう年長になってからは、母の日も父の日も、ようちえんを休みました。母が、
「今日は、母の日だけど、父の日も行かないよ。一人だけお父さんがいないのは、いや でしょ。」
と言われたのは、今でもずっとおぼえています。年中の時、母のと父のための手紙みたいのを作る時がありました。私は、少しかなしくなりました。母の手紙の用紙は、ピンクで、父の手紙の用紙は、青でした。私の父は、青が大好きでした。私は、父がいませんが、六年生のかいとさんは、母がいないと聞いて、
(わたしよりつらいのかなあ。)
と思いました。母は、何でもやってくれます。でも、そんな母がいなくなるのは、つらいと思います。私もようちえんのそつえん式は、母だけでした。でも、母がいてくれただけで、私は、うれしかったです。そんなことをずっと思って、六年生の作文をきいていたら、六年生の作文は、終わってしまいました。こんな人権の作文は、聞きたくありませんでした。父は、よく高い高いという、上に高くなげてキャッチしてくれるのが大好きでした。私は、母がいます。だから、母をもっと大切に生活したいです。
  聞きたくないと言いながら、自分の過去を思い出している作者である。父にしてもらった、高い高いが大好きだったと書いている。

堤小に転校してきたのは 五年  男子 

 僕は、二年生の九月に堤小へ、長野県から転校して来ました。
 なぜ堤小に転校してきたかというと、長野県にいたときの事です。その時は、一年生になるちょっと前の月に、長野の県ないから引っ越しきました。それまでは、マンションに住んでいました。一軒家に、僕、妹、母、父の四人で暮らしていました。
 父は、その日くらいから様子が変でした。どこがおかしいかというと、怒ったり、ほめたりするする普通の人だったのに、その時から気が短くなりました。
 たとえば、母が作った食べ物に、髪が一本入っているだけで、
「なんで髪が入っているんだ!もうこんなの食べない。」
などと言って、その食べ物が入った皿を、床に投げつけて、皿を割ったたりしていました。
 僕は、いつも、
(なんでそんな事で、お皿を割ったりするんだろう?)
と、思っていました。それが日に日にひどくなってきました。
 僕は、ただ手がすべって、お皿を落としただけで、父に殴られる事もありました。 
一年生の終わりごろ、僕がまたお皿をテーブルから落としてしまった時は、もっとひどく、一時間正座させられた事もありました。
 その次の日、母が僕を呼び、話をしました。 その話の内容は、その時住んでいた家から僕と母と妹で、母の祖母(母と母)と祖父(母の父)が住んでいる東京に逃げるという事でした。
 僕は、学校の友達と別れるのが嫌だったので、
「嫌だ。」
と答えました。
 それから、二週間ほどたち父が、仕事でアメリカの、ニューヨークへ行った時、母のケータイに一通のメールがとどきました。
 その内容は父からで「今、飛行機に乗っています。」という事でした。そのメールを見て、僕と母と妹で、
「この飛行機、海に落ちてパパ死ねばいいのにね。」
となってほしい事を三人で言いました。
 しかしその飛行機は、海には落ちませんでした。母は、父が無事だったことをメールで知り、
「なんだよ!」
と言いました。 
 それから、僕は二年生になりました。父の気の短さは、またひどくなりました。ついに六月ごろ母は、僕に、
「もうこの家からを出よう。」
と言いました。ぼくは、
「友達と別れるんでしょ。」
と言いました。母は、
「ママは、もう限界だな。じゃあ一週間だけ東京へ、行って見よう。」
と言いました。僕は、
「うーん。わかった。」
と言いました。 
 祖母と祖父に連らくし、七月に東京に一週間行くことになりました。僕は、学校を一週間休みました。僕たちは、父に見つからないように東京へ行く準備をしました。なぜ父に見つからないようにするかというと、また父になんかやられるからです。東京へ行くとき祖父と祖母と長野の家の近くで、待ち合わせをし、その時間に家を出て、母が家で昼寝をしている父に、
「今から一週間、東京に行くから。」
と言い、二十秒くらい待ちました。父は、パンツ一っちょで、寝ているので外に出られませんでした。僕は、無言で祖母と祖父の所へ行き、タクシーで駅に向かいました。電車に乗って、東京駅に着きました。そこからまた電車にのって、鐘ヶ淵駅に着きました。そこから歩いて、祖母と祖父の住んでいる団地に行きました。
僕たちは、長野に戻った後の事を話しながら、そこで一週間いました。
 ついに長野に戻る時、僕は、
(帰りたくないなあ。)
と、思っていました。長野の家に着き、僕たちは家に入りました。すると母たちは、一階で話を始めました。僕と妹は、二階で遊んでいました。一時間くらいして、話しが終わると、父が僕に、
「豊!最近きっていなかった髪を切りに行こう!」
と言ってきました。僕は、
「行かない!。」
とは言えず、強引に、僕を車に乗せました。すると、父は、
「あっ!家のカギを忘れた!」
と言い、家に戻って行きました。
一分くらいして母と祖母が来て、僕を車から降ろして、僕に、
「豊!なんで車に乗っているの?」
と聞きました。僕は、
「パパが、髪を切ろうって言って、車に乗せたの。」
と言いました。すると父が、
「何やってんだ!早く車に乗って、髪切りに行くぞ!」
と言いました。母は、
「何言ってんの!行くわけないじゃん。一週間、何でいなかったかわかってんの。」
と言うと、父は、
「はぁ~?お前こそ、なに言ってんの。」
と言い合いを始めてしまいました。しばらくすると、言い合いがとまり、母と父と祖母と祖父は、また話を始めました。しばらくすると、母が僕に、
「豊。もうパパと会えなくてもいい?」
と聞いてきました。僕は、
「うん。いいよ。」
と答えました。母は、
「学校変わるんだよ、わかってんの?」
と言いました。僕は、
「うん。わかってる。パパと離れられるなら。」
と言いました。母は、
「じゃあ、じいじ(母の父)と東京に行く。」と聞きました。僕は、
「うん。でもママたちは?」
と言いました。母は、
「パパともうちょっと話してから。たぶん明日には、帰るから。」
と言いました。僕は、
「わかった。」
と言い、一時間後。祖父の車に乗る時、母が、
「荷物は、トラックで来るから。」
と言いました。妹と母と祖母の三人は、残りました。僕は、
「うん。」
と言い、祖父二人で、東京に祖父の車で、行きました。
 その次の日、母たちが東京に来ました。僕は、
「パパともう別れたんだよね。」
と聞きました。母は、
「そうだよ。」
と言いました。僕は、ほっとしました。
 それから一週間たちました。母が、
「学校どこにする?」
と聞きました。僕は、
「なるべく近いところがいい。」
と言いました。すると、祖母が、
「堤がいいんじゃない?」
と言いました。母が、
「ああ、いいね。」
と言いました。ボクは、
「どこそこ?」
と聞きました。母が
「ママが通っていた小学校だよ。ここからすごく近いし、そこにしたら。」
と言いました。僕は、
「うん、いいね。」
と言いました。
 僕が転校する学校は、堤小学校に決まりました。そして僕は、堤小に行くことになったのです。
 父母のいさかいが原因で、離婚し母親と一緒に逃げるようにして東京の祖父母の元へ戻ってきた二人の兄妹。この時のことは、一生二人の心に刻まれているに違いない。
 このクラスは、1クラスの単学級(10人うち女子は1名)だった。唯一の女子で、母親をガンで亡くし父子家庭であった。この児童がいるおかげで、クラスが穏やかなこともあった。私が異動したときは、この子どもたちは一年生であった。その中の一人の児童の母親は、麻薬中毒患者で逮捕されて、入学式には、祖母が来ていた。そのために、学校は休みがちであった。担任が、毎日のように迎えに行き、学校に来ていた。心がすさんでいる子が多く、けんかが絶えなかった。

ぼくが不登校と言われていやだったこと 5年 男子 K ・ T

 十月十九日火曜日の三時間目のことです。その時、担任の広沢先生は、二人目の子供が生まれる予定だったので、きゅうかをとりました。なので、かわりに、四年生のたんにんの松井先生が来ました。少したって、松井先生が、
「手紙あるから、今、配っちゃうからね。」
と言いました。そして、松井先生が、手紙を配りました。その中に、
「不登校・引きこもりへの対応。」
と言う手紙が配られました。その題名を見て、友だちのH君と、A君とNちゃんがぼくに対して悪口を言ってきました。さいしょは、Nちゃんが、
「これT君じゃん。」
と言いました。そのつぎ、A君が、
「たしかに。」
と言いました。その後、H君が、
「あいつじゃん。」
と言いました。
(ぜったい、ぼくのことだ。)
と思いました。その後、また、Nちゃんが、
「T君に、おすすめだよ。」
と言った後に、その三人が、
「そうだよ、おすすめだよ。」
といってきたので、ぼくは、
(なんだし、うざっ。)
と思いました。そして、配られた紙に、
(何で、こんな手紙、この世にあるんだし。)
と思って、手紙をにくみました。ぼくは、その後、少し、いやな顔をしました。Aさんは、ぼくが少しいやな顔をしたことに気づいていたのか、ちょっとだまりました。学校が終わっても、少しいらいらしてたので、ばれないところで、思いっきりさけびました。大きな声で、
「あああ。」
と一回さけびました。でも気がすまないので、家で、まくらを少し上に投げて、思いっきりそのまくらを一かいなぐりました。
 それで火曜日は、気がすみました。その後、ねました。
 次の日の四時間目に、広沢先生が、そのことを話しました。それで、みんなが反省してくれたので、
(よかったなあ。)
と思いました。
 今日あったようなことは、けっこうよく言われています。たとえば、朝早くおくれずに学校に来て教室にはいると、
「宿題やった。」
とせめるように言います。よく言う人は、H君、A君、S君が言ってきます。
 このように、ストレートに人の悪口を言ってしまう集団であった。日記を書かせていたので、何でもそこに書いてくれた。その文を担任に見せて、解決をするように仕向けることが時々あった。このこどもたちも、それぞれ家庭的には、色々な問題を抱えている子どもたちであった。その中の1人の子どもの父親が高血圧が原因でなくなった。病気持ちであったが、コンビニを掛け持ちで仕事に明け暮れ、病院にも行けなかったようだ。母親は、フィリピン人で、一番下の子どもは、生まれたばかりの子どもであった。お葬式をあげられないと言うことで、学校が町会にお願いして、ささやかな葬式をしてお見送りをした。

養護施設に、行くことになったこと 六年 男子

 僕の母は、体が丈夫ではありません。僕が二年生の時、母は腰を悪くしました。病院に行ってレントゲンをとりました。医者からは、一ヶ月の入院だと言われてしまいました。僕の家は三人家族でした。姉も五年生だったので、一緒に養護施設に行くことになりました。母は、とても悲しみました。

養護施設に入った日

 十月二十一日に、養護施設に行くことになりました。僕は、二年生だったから、預かってもらう事の意味が分かりませんでした。預かってもらうところの建物の前に行ったとき、僕は、
(泊まるんだなあ。)
と思い、思わず泣いてしまいました。母も目に涙を浮かべていました。でも、預かってくれる人が、
「お母さんが困っているよ。中に入ったら、いっぱい泣いていいんだからね。」と言いました。僕は心の中で、
(そうだなあ。)
と思っていました。だから、僕と姉は笑って、
「バイバイ。」
と言うと、母も、
「バイバイ。」
と、別れました。

養護施設の部屋

 部屋は、男女別々でした。だから、初めは僕一人で遊んでいました。姉は、女子の部屋に行きました。僕は、一人ぼっちだったけれど、みんなが遊びに誘ってくれました。みんなと言っても十人だけでした。トランプゲームをして遊びました。僕は、トランプが苦手だったので負けてしまいました。最後は、みんなが僕を勝たせてくれました。夜は五人で寝ました。一週間経つと、運動会がありました。障害物レースがありました。僕は一位になって、みんなに、
「一位なんて、すごいね。」
と言われました。その日をさかいに、僕はトランプなどのゲームによく誘われるようになりました。でも、僕の心は悲しくもなっていきました。施設を離れる日が近づいたからでした。最後の日の朝、僕は友達から、
「トランプしない?」
と、誘われました。
「するよ。」
と言って、僕はみんなと遊んでいました。窓の外を見ると、僕の母が来ていました。母の顔を見たとき、僕はうれしくなりました。養護施設の人に、
「もう来たから、帰る用意してね。」
と言われました。一階に下りて、母に会いました。養護施設の人に、
「ありがとうございました。」
と、お礼を言いました。それから、自分の家に帰りました。

初めてお世話になった家

 四年生になり、母の腰がまた悪くなりました。今度は、施設ではなく普通の家に預かってもらうことになりました。その家の人は、社長さんでした。家族は、社長さんとその奥さんの二人だけでした。やはり僕と姉の二人で、そこの家に預かってもらうことになりました。土曜日や日曜日になると、社長さんが運転をして、ドライブを楽しみました。アスレチックや遊園地などに連れていってもらいました。行けば必ず、食事をしておみやげなどを買ってくれました。
 僕は、社長さんの工場に行きました。そこで、車に積んである荷物を下ろしたり、運んだりしました。一回に二時間くらい働きました。終わると、近くのデパートに連れて行ってくれました。そこで、ジュースやアイスを買ってくれました。また、誕生日には、ケーキと飲み物を用意してくれました。誕生日プレゼントも買ってくれました。プレゼントは、熊の人形でした。その熊は、洋服を着ていて、サラリーマンみたいなかっこうをしていました。今でも、大事に机の上に飾ってあります。その人形を見ると、その人たちと過ごした一ヶ月のことを思い出します。
 この一ヶ月間は、社長さんの家から堤小学校まで、バスで通っていました。二回バスに乗り換えて登校しました。一時間くらいかかりました。とても親切にされたので、別れるときは悲しかったです。
 母が、その家に迎えに来てくれました。社長さんの奥さんが、僕たち三人を、
「車で家まで送ってあげたら。」
と言ってくれました。奥さんも一緒に、車に乗って送ってくれました。家に着いた時、僕は、泣きながらその人たちに、
「一ヶ月、預かってくれて、ありがとうございました。」
と、お礼の言葉を姉と二人で言いました。奥さんは姉を抱きしめ、社長さんは僕を抱きしめてくれました。社長さんたちも泣きながらお別れしました。
 僕は、この六年間に多くの人に親切にしてもらい、お世話になりました。大人になったら、その人たちに、お礼のあいさつをしに行きたいです。そして、母親にも親孝行をしたいと思います。
 もうじき卒業していきます。感謝の心を忘れないようにして暮らしていきます。

 シングルマザーのこの母親は、この子と上の姉を育てるには、厳しい体になり、このように養護施設にお世話になったりしていた。親に子どもを育てる力がないときには、このような施設もあることを学校が紹介したのであろう。
 学校の給食が唯一の栄養源になっている子供もいた。親が必死に生きているので、子どもに手をあまりかけない家庭も何人か見られた。経済的に恵まれていないので、荒いことば・人を傷つける言葉を平気で発する子供もいる。しかし、作文などを書かせると、素直に正直書いてくれる。その文章をクラスで読み合うことによって、自分が相手を傷つけたことは、素直に認める子どもたちであった。
あれから七年が過ぎ去った
 この子どもたちと別れてから、七年が過ぎた。格差社会は、ますます広がってきている。今日本は、様々な事情で、母親も働きに出るようになった。そのために、保育園に預けて働く親が増えてきた。保育園の保育士の給料が低いので、待機児童問題が出てきた。一般の平均の給料より、十万近く低いという。老人ホームの介護士の給料も同じに低い。特別老人ホームには、要介護三以上にならないとすぐには入れない。そのため、有料老人オームならいつでも入れる。しかし、月に二十五万以上払わないと入居できない。
 かって、百年安心老後生活と歌った自民党の年金問題は、誰も信用していない。

人権集会を取り組んでみて

 文章を書かせることは、自分自身の生活を見つめ、とらえ直すことである。大きく言えば、子ども自身を「意識変革」する営みである。今回の取り組みを、全校ぐるみで取り組めたことに、大きな意義がある。当日の作品は、クラス1作品を取り上げることであったが、そこまでに行く過程の中で、全員の子どもたちが、友達の作品を読み合うことができた。作品を通して、自分以外の人のものの見方・考え方を学び合うことができた。特に「いじめ」と言うことを、された人の側と、した方の側の2つの作品を読み合うことができた。特に、いじめと思わないでからかったりしていた人にとって、本当にきづつけていたことがよく学び合うことができた。特に、全校集会でそれを読み合うことは、全員の子どもと教師が一体となって、「人権」というものを、身近に感じることができた。
 また、文章を書くことの楽しさも、徐々に味わえることができた。その元になるものは、日頃から「書く」習慣を身に付けておくことである。つまり、日記を書くことによって、題材も広がり、書く習慣も自然に身に付いていくのである。
 教師自身も、日々「人権」感覚を意識して、子どもたちと接することの大事さが、教育の原点であるということも、改めて分かってきたのでは、ないだろうか。

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