子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月9日(日)話し言葉と書き言葉の違い

6月9日(日)話し言葉と書き言葉の違い

 縁あって、国分先生の自宅で、勉強会があり、そこに参加するようになったのが、教師3年目の頃であった。ずっと作文教育を実践されてきている、ベテランの先生方が、10人以上集まっていた。みなさんが話し合っているようすを、黙って聞いているだけで、精一杯だった。そんな時、国分先生も、黙って聞いておられ、最後にまとめるときに、私のような新米教師にもわかるように、お話をされて理論化して下さる場面が度々あった。会が終わり、2次会になると、お酒の用意をして、参加者に振る舞われるのだった。そんな折には、私のような若い者にも「そんなすみにいないで、こちらにいらっしゃい。」と声をかけて下さるのだった。

ありがたい言葉

 そんなある日のこと、「誰かいい人がいるのなら、仲人してもいいですよ。」と、言って下さった。私と妻になる典子さんと一緒に、先生のお宅にご挨拶に行ったときのことだった。先生は、わたしたちのために、田舎のうまいものを準備して待っていて下さった。その折に、「2人のことを紹介するので、原稿用紙5枚程度の作文を書いてきて下さい。」と宿題を出されたのだった。結婚式の日程をお話しして、帰ってきた。

40年ぶりに聴いたテープ

 あれから40年たち、久しぶりにその当日の先生の挨拶を改めて聞いてみた。先生の優しさがにじみ出ている挨拶だったので、ここにテープ起こしをして、記録に残すことにした。この時の国分先生は、68才の年だった。1979年10月20日が、我々の結婚記念日になる。

国分さんのご挨拶

 国分一太郎でございます。先ほど厳粛な式を挙げられまして、夫となり妻となりましたお二人の方の経歴などについて、簡単にご紹介致します。
 榎本豊君は、戦争が終わった昭和20年10月22日に、埼玉県与野町に生まれました。2年後に生まれました弟さんと一緒に、もっぱらおばあちゃまお母様にすくすくと育てられておりました。
 大きくなりまして、埼玉大学教育学部に入学、学生時代は、バスケットボールに熱中し、そこでスポーツ精神を体の中に、魂の中に養いました。池袋第三小学校の先生となりまして、そこで卒業以来7年間勤められました。そこでは、作文教育に心を砕かれ、子どもたちの生活と心を正確につかみ取りながら、それに対して、力強くやさしくはたらきかける教師の道を追求致しました。また、豊島区の教員組合の役員としても、一生懸命に頑張っておりました。わたしは、その頃榎本君と知り合いになりました。
 その後、榎本君は、墨田区立の小梅小学校へ移りまして、今年で4年目になっております。お母さんも学校の先生をしており、教員組合運動にも大変ご熱心に活動された時期があり、、家庭科教育では、全国的にも大変有名な方です。私もお母さんとも、親しくさせていただきました。弟さんも教員をなさっており、また親戚にも教職に就かれた方が多いようでありまして、教育一家そこの長男としてうまれ、教育の道に励んでおりました。

妻典子の紹介

 妻となりました、柴山典子さんは、昭和27年9月1日川口市に生まれまして、長女として誕生しております。小さいころは、体が弱かったとのことですが、小学校時代から、魂も体も非常に健康になり、男の子とどろんこ遊びをするなどして、大変勇ましかったと、本人がふり返っておられます。小学校、中学校は、芝小学校、芝中学校に通い、中学校の時代は、生徒会の議長などになりまして、活発な活動をなさったそうです。
 高等学校は、大妻女子高等学校へ入学されました。ここでは、ギターやフォークソングなどのバンドなどを結成し、活発な活動をされていたようです。
 この間、高校三年生の6月に、お父様を病気で亡くされたそうです。典子さんは、青春の時期に、お父さんを失い、榎本君は、小さいときから、おばあちゃま、お母様に育てられて、今日に至っております。この点も大事なことであろうと、思われます。
 昭和50年豊島区巣鴨小学校の教員として、就職し今日に至っております。教職についての勉強は、大妻女子大学家政学部児童学科で身につけたようです。なお、松島流の日本舞踊の技も身につけておられ、松島麗豊というお名前を、お持ちだそうです。

2人の出会い

 このお二人が出会いになりましたのは、どこかのスキー場で、白々とうつくしい雪の上で愛するようになり、やがて恋心が醸し出され、そして今日結ばれると言うことになったと言うことは、まことにおめでたいことです。

締めくくりの言葉

 今日は、きのうまでの凄まじい台風が、まるでうそかのようにからりと晴れたいい天気になりまして、今日の日をいかにもお祝いするかのように、お二人にとっても大変ありがたいことだったとおもいます。そして、頼まれ仲人の私にとっても大変うれしいことでした。おととい兵庫県の城崎温泉の方に行きまして、学校の先生方にお話をする予定でしたが、台風のためにそれができないと言うことになり、昨日の朝7時に駅に行きまして、汽車が来るかくるか、汽車が来るかと待っておりましたが、とうとう汽車は来ず、ベンチで夕べの11時47分すぎまで、待っておりましたら、ようやくはじめての汽車が来ましたので、それに乗って、今日間に合うことが出来ました。富士山のわきを通るときに、富士山が非常にくっきりと見えましたので、「ああ、良かったなあ。」と思いました。これからみなさんから、励ましの言葉やら、色々な恋心発生以後のことについて、お話があると思いますが、私は、今日の輝かしい今日の空のことを考えまして、榎本君夫妻に下手な字と絵でありますが、床の間にかける掛け図のようなものを、ちょっとこしらえて参りました。これを差し上げたいと思います。文句は、「行く春秋を二人ゆく、ただにはるけきその道に まぶしきほどに光りあれ」

今ふり返って思うこと

 40年前に直接国分さんの挨拶を聞いていたときは、感動しながら聞いていたのを思いだす。それは、国分さんの親しみやすい声と、そのときの感情や声の調子などが生き生きと伝わって来たのだ。このように文章にしてみると、あの時の感動がそれほど伝わってこないのは、話し言葉と書き言葉の違いなのかも知れない。つまり、話し言葉には、語り手の気持ちがその語りに加わってくる。感情移入というものだ。その場に出席している人は、ひとことひとことに、語り手の顔の表情や声の調子もしっかり受け止めながら聞いているのである。
 また、私達2人にとって、お付き合いしてから、5年たって、やっと結婚することが出来た喜びもそこにはあったのかも知れない。
「国分先生が、仲人をしてくれるかも知れない。」と母に言うと、「それはすごいことだ。本当かい。」と念を押すように、大賛成してくれた。母の本棚には、国分先生が書かれた岩波新書の「教師・その仕事」などが並べられていたのだった。また、当時、母は、日教組の教育制度審議会で、家庭科教育の代表団に加わり、国分先生とは、顔なじみであった。「『今日、国分先生にお目にかかったので、息子が、先生のお宅でお世話になっています。』と挨拶しておいたよ。」と、母からも言われていた。そんな話も聞いていたので、当日の挨拶のなかに、母のことまで触れて、話をして下さったので、なおさら感動しながら聞いていたのかも知れない。それと、最後の方に、前の日に兵庫県の城崎温泉に出かけて、台風のために教研集会が中止になり、帰りの汽車がすぐに出発せず、駅のホームにずっと待っていた話と一番列車が動き出し、それに乗って新幹線から見える富士山がはっきりと見えた話を入れながら、この場に立って話をされている先生の姿が、まぶしく見えたのかも知れない。
 今、教科書には、「スピーチ原稿」という単元がある。人前で話すときの、しゃべり方のポイントなどが書かれている。これは、子どもだけでなく、大人になっても、大事になってくる。人前で大事なことを話すようなときには、事前に話す内容をメモして話す人が多い。作文で言う、構成を考えておくことだ。「はじめ・なか・終わり」と、大まかに話す内容を書いておくと、まとまりのある話が出来る。「スピーチ原稿」と言っても、事前に文章にして、メモなどしておくと、話がスムーズに出来る。つまり、話し言葉であっても、書き言葉による文章で準備していることが、いかに大事かと言うことになる。
 この後、来賓挨拶が次々とあったのだが、事前に準備して、ユーモアを含めて楽しく語ってくれた人が多かったのだが、双方の主賓の挨拶をした校長さんの話には、参ってしまった。長々と、とりとめのない話をされて、うんざり聞いていたのを思い出す。おそらく、しゃべり慣れているという自負があったのか、事前に準備してこなかったことがすぐにわかるスピーチであった。
『紀要』に載せる文章

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