子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

8月4日(木)私に反戦の考えを培ってくれたもの

8月4日(木)私に反戦の考えを培ってくれたもの

「滝の会」合宿    秩父の田子別宅と山梨北杜市(深町宅)

私に反戦の考えを培ってくれたもの

 山形の国分一太郎「教育」と「文学」研究会で「私を支えた平和教育」を報告した。改めて、このような考えを培ってくれた元になるものは、何かを考えてみた。
 敗戦後の1945年生まれの私の生い立ちそのものが、「平和」そのものへの追求であった。「人間は、生まれてきたら幸せに生きていく権利がある。」と言うフレーズがその後の教師になってから、ものを見つめ考える、原点になった。
 日本が戦争に負けて、今年で71年の歳月が流れ去った。ちょうど私の年である。小学生の頃、父親がいない子供が何人かいた。父親が戦死した友だちだった。その頃は、皆貧しかった。ちり紙を、新聞紙を切って使う友だちもいた。鼻の下をいつも黒くしていた。街頭テレビに群がって、力道山の空手チョップに興奮していた大人達の中で一緒に見ていた。水道がまだなかったので、井戸の生活だった。
 風呂もなかったので、お風呂屋に通った。今では当たり前になっている、冷蔵庫・洗濯機・掃除機などは、誰のうちにもなかった。テレビはなく、ラジオが、情報源の1つであった。そこから流れてくるのは、広沢虎三の浪花節や三遊亭金馬や円生の落語が、楽しみだった。「赤銅鈴之助」や「いがぐり君」などの月刊雑誌の付録漫画が、付いてきた。「少年画報」や「冒険王」が本屋に並んでいた。お小遣いが1日10円くらいの時代である。そのような雑誌は、毎回は買えなかった。
 シングルマザーで、私たち兄弟2人を必死に育てていた。小学校教師の薄給では、給料が、10日間くらいで、なくなっていた。その分、母が何とか家計をやりくりしていた。自分の家が、貧しいという気持ちはなかった。どこの家も、似たり寄ったりであったからだ。
 小学生時代は、毎日のように遊びに夢中であった。ベイゴマ、ビーダマ、めんこ、三角ベースなんでも楽しんだ。

印象に残った映画 

 小学校3年生の時に、「二十四の瞳」(壺井栄著)を、学校全体で、映画館に見に行った。1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。最後の方のシーンが印象に残っている。長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになる。教え子の中にはかつての教え子の子供もいた。その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは「泣きミソ先生」とあだ名をつけた。
 そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれる。その席で、戦争で失明した田村高廣演じる磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら(オリジナル版では指差す位置がずれ、涙を誘う)全員の位置を示す。真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸が一杯になり、涙が溢れてきた。
 日本が第二次 世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒。(ウイキペディア参照)
 小学校教師へのあこがれのようなものが、少し芽生えていたのかも知れない。
 やがて朝鮮戦争によって、日本は、景気が回復してくる。しかし、その実感は、なかった。

小学生から中学生へ

 1957年が、「学力テスト」反対闘争の年であった。母親は、当時浦和市教組の婦人部長(当時組合員3000人ほどいた。)だった。毎日遅く、帰る時間には寝ていた。母の役割は、祖母がしてくれていた。執行委員会がおそくまであり、家に帰らず、そのまま職場に行くようなときもあった。日教組が、もっとも激しくたたかい始める頃の出来事であった。今でも覚えている一コマがある。小学校の帰りに、浦和の県庁前を沢山の人達がデモをしていた。今のように整然としたデモでなく、道路の真ん中で、ジグザグデモである。その中の一人に、母親が鉢巻きをして、はげしく抗議行動をしていた姿である。あとから、家に帰った母にそのことを聞くと、「よく分かったね。」と笑っていた。
 この間、三井・三池闘争(1959~60年)もあった。教師になってから、滝の会で、良く田子さんが話題にしてくれた総資本対総労働の闘いであった。
 60年安保は、中学3年生だった。東京大学の女子学生樺 美智(かんば みちこ)さんが 1960年6月15日安保闘争で機動隊の暴力で死亡した。その実況中継を、ラジオ東京で、流していた。アナウンスしている人にまで、警棒が襲いかかってくる、激しい闘争であった。この頃のマスコミは、まだまだ、健全であった。
 その年の秋、浅沼稲次郎暗殺事件は、1960年(昭和35年)10月 12日に東京都千代田区にある日比谷公会堂において、演説中の出来事であった。浅沼稲次郎 日本社会党委員長が17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺されたテロ事件のことも忘れない。人間機関車と言われた浅沼さんは、国民に大変な人気があった。社会党の黄金時代だったかも知れない。

高校で平和教育を学ぶ

 小学生・中学生は、勉強はしなかった。高校も三流高校に入学した。しかし、そのことが、結果的には良かった。新設5年目の学校で、先生方が、熱心に授業をしてくれた。高校1年の夏休みの読書感想で、「ビルマの竪琴」(竹山道夫著)を読み、戦争のむごさを初めて知った。のちに映画にもなり、白黒の映画を見た覚えがある。安井昌二演じる、水島上等兵のことが印象に残っている。
 国語の教師が、「聞けわだつみの声」の中の何編かを、印刷して、読み合った。その作品が、戦争と向き合った初めての作品であった。その中の上原良二という方の作品は、強烈な印象を持って読めた。特攻隊の遺書が、こんなに悲しいものなんだと、教えられた。

上原良二

 1945年5月11日午前6時15分、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として他の隊員たちと『男なら』を合唱したあと愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。
「所感」[編集]
 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
 真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
 明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
 言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

遺本[編集]

 遺本となった羽仁五郎著「クロォチェ」にはところどころに○印が付され、それをたどると愛する女性へ送られた言葉が浮かび上がる。
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた。しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした。しかし わたしは いつもきみを あいしている」
 上記の遺書「所感」の後半に「天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思う」と記されているが、その彼女こそが、「きょうこちゃん」こと石川冾子である。石川は上原の日記にもたびたび登場しており、「こんやくの人であつた」と記されているように、1943年に他の男性と婚約している。「天国において会える」と書いているのは、石川が1944年に結核で病死しているためである。上原は過酷な訓練の毎日においても、常に石川に対して淡い恋心を抱いていた。(ウイキペディア参照)
 大学は、体育会系のバスケットボールにすべてをかけて、4年間過ごす。

社会人への一歩

 初めて社会人になった職場が、豊島区立池袋第三小学校。1969年4月。
 その職場が、私の教師としての生き方を決めてくれた職場であった。
 職員会議が終わると、職場会が必ず開かれた。その場所からいなくなる人は、校長教頭と、あと数人の人が、席を外した。今考えると、組合の会議であった。そこには、以前この研究会にも参加していた鈴木宏達さんがおられた。豊島の組合の副委員長をされていた。鈴木さんは、戦後すぐに代用教員になる。その職場で片岡並男と言う日本作文の会の事務局長などをされている方に出会う。片岡さんに連れられて、「夏休みの友」の編集に行った。そこでは、教員組合が中心となり、そのノートとを作っていた。そこに国分さんと出会っている。
 私のもう1つの出会いは、4年生を担任したときのとなりの教師が、日本作文の会に所属し、ばりばり作文教育をされている女の先生だった。「子どもに作文書かせない?楽しいわよ。」それが、作文教育との出会いであった。やがて、豊島作文の会を作り、日本作文の会の全国大会などに参加するようになった。当時2000人以上の人々が、全国から集まり、作文や詩の実践を熱っぽく語ってくれた。国分一太郎さんや乙部武志さんは、「作文と教育」という機関誌で名前を知る段階であった。やがて、その時の感動を、自分の教室でもやってみようと言うことになり、「原爆の子」(岩波書店)という子どもたちの書いた散文や詩を読み、そのいくつかの作品を読み聞かせをし、その感想の文を書かせたりした。

国分一太郎さんとの出会い

 やがて、豊島作文の会に日本作文の会の常任委員の人を呼んで、「作文教育この良きもの」という話を、年1回開くようにした。最初の人が、国分一太郎さんであった。当時池袋第三小学校の体育館が、ぎっしり集まるほどだった。この時に話していただいた内容は、国分さんの名調子で、2時間近くたっぷり話をしてくださった。鈴木さんも、20年ぶりに国分さんと再会している。2次会では、国分さんを囲んで、池袋駅前の料理屋に行き、おいしいお酒を飲んだ。
 やがて、国分さんのご自宅に行き、作文教育を理論化する、研究会に参加するようになった。26才頃で、いつも緊張して参加していた。国分さんは、10人くらいの実践家の話を黙って聞いていて、最後にまとめるときのお話が、私のような若い教師にも分かるようにかみ砕いて話をしてくれた。2次会になると、国分さんの手料理、田舎のうまいものをごちそうしてくれた。「田中君や榎本君、そんなすみにいないで、もっとこちらに来て遠慮せず話をしなさい。」と私たち若者にも気を遣ってくださるのであった。
 その頃、1969年6月24日に20歳で鉄道自殺をした高野悦子さんの日記『二十歳の原点』と言う本が、ベストセラーになっていて、夢中になって読んだ。

沢山の人との出会い

 半年後に組合に加入し、次の年に定期大会で、激しく執行部にたてついているかっこいい青年がいた。それが深町さんだった。
 やがて、教師4年目の年に豊島区の執行委員になり、田子さんと初めて知り合う。日教組の定期大会の議案書を、滝澤という池袋の西口の喫茶店で2人で読んだりしたのが懐かしい。そこから、滝の会が始まった。担当分会が、池5小と大明小だった。職場会に招かれていくと、いつも威勢のいい青年がいた。内田さんだった。ここから、1本づりが始まった。やがて、今井・渡辺・山崎・田子・内田・榎本のメンバーで、夏の合宿が始まった。昼間は、マルクスの共産党宣言を読み、夜は変な薄暗い小屋の見学だった。
 教師8年目の年に、都教組の総括討論の反主流派の闘志内田宣人の発言に魅了されて、墨田区へ異動した。「一人の子も切り捨てない教育」が、「ゆきとどいた教育」と渡り合っていた。主任手当反対で、単独ストを早朝2時間打ち抜き、最後まで闘い続けた。
 主任手当拠出の金がたくさん集まり、「平和のための区民の夕べ」を何回か持った。「火垂るの墓」の作者野坂昭如さんを招いて、講演会を開いた。終わった後に、謝礼の50万円を出すと、「戦争の話をするときには、金は取れません。寄付します」と言って、執行部を驚かせた。その野坂さんもいない。小沢昭一・水木しげる・永六輔・大橋巨泉みんな、戦争のむごさを知っており、憲法9条を大切にする人達だった。
 東京大空襲の被害のあった墨田区で、戦争体験の聞き書きが自然と始まった。以後、退職するまで、墨田教組の一員を担えて、幸福であった。
 教師になった年から、47年が過ぎた。福島原発事故が起き、安保法案が強行採決され、沖縄の辺野古への移設が強行に行われようとしている。新自由主義が世界中に広がり、「世界で最も豊かな62人の冨の合計が、世界の人口のうち、貧しい方の下から半分、約30億人分の冨とほぼ同じだ。」(「税は誰が決めるのか」民間税制調査会座長・三木義一)朝日新聞2016年3月16日朝刊を読み、日本の泥船は、とんでもないところに来ているのに、日本国民は、アベノミックスに飲み込まれている。日本のマスコミは、もうとっくに死んでいるのかも知れない。しかし、我々は、「連帯を求めて、孤立を恐れず」最後の最後まで、闘い抜こう。西武戦の椎名町駅の近くの交番の前で、酔っ払って「インターナショナル」を歌った頃が懐かしい。みんな若かった。気力体力だけは、維持しよう。渡辺茂さんの志に黙祷!!

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