子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

8月17日(月)母からの聞き書き・未完成

8月17日(月)母からの聞き書き・未完成

 まだ母が元気であった頃、老人ホームに行くと、母との会話を楽しんでいた。せっかくならばと、母の生い立ちの記を書いてみようと、始めることにした。あくまで、母を1人称にして文章を書いてみることにした。8年前の、2007(平成19)年8月29日記録となっている。

母の49日の日に 長男 榎本 豊 記録
2007(平成19)年8月29日記録
 母が88歳の頃、老人ホームに行ったときに、聞き書きをして収めたものである。
 母も、大部、記憶が薄れていて、何度か色々聞くと、「忘れた。」と言って、くわしくは語ってくれなかった。もっと、記憶の鮮明なときに話を聞いておくべきだった。何度か、この続きを聞いたのだが、ほとんど、忘れたと言って、あまり語らなかった。

「私の生い立ち」 榎本 稲子

 *印は、豊のコメント
 私は、1920(大正9)年に、東京都港区芝に父喜{1894(明治27)年生まれ}、母志満{1900(明治33)年生まれ}の最初の子供として、誕生した。当時家は、米屋さんをしていた。手広く店を開き、いわゆる奉公人が10人以上いるような米屋だった。
 その頃の写真が残っているが、おぼろげながらであるが、両親を始めとして親の兄弟や、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、叔父さん、叔母さん等の親戚で9人、そして九州や東北から住み込みで働いていた奉公人等々で、総勢20人近くの大所帯だった。

小学校時代

 私は、港区立竹芝小学校に、1926(昭和元)年に入学した。担任の先生は、東條先生という女の先生だった。1年間だけの担任だった。一番年上の先生だった。よくかわいがってもらった。2年生になると、若い新卒の女の先生に代わった。やはり1年間だけだった。3年生になると、加藤先生という男の先生に代わった。検定上がりの先生だった。その先生は、6年生まで4年間担任していただいた。男の先生の中で、年輩の先生だった。小学校の時には、なにをやっても1番だった。体育も習字もなんでも1番になるように努力した。かけ足も早く、東京都の大会に参加し、1番早い子と組んでしまい、2番だった。習字もうまく、学習発表会に出て、親の前で、字を書いた覚えがある。唱歌は、1年生の時だけ乙だった。2年生からは、すべて全甲だった。
 私が生まれてから、3年後の1923(大正12)年にとくちゃん(松岡とく子)が生まれ、その後1926(大正15)年哲ちゃん(榎本哲一郎)、1931(昭和6)年政子さん(中野政子)1932年(昭和7)年せつさん(小林せつ)と5人兄妹になった。1男4女の5人姉弟だった。1番下のせつ子さんとは、ちょうど一回り違ったさる年だった。この頃には、埼玉県与野市(現在のさいたま市)に引っ越していた。
 *祖母志満は、小学校は、2年生までで終わりだった。義務教育が、そこでおしまいだったのだ。しかし、記憶力の いい人で、私には、昔の話を生き生きと話す人だった。

師範学校へ入学

 お金もなかったので、入学すると給料のもらえる埼玉女子師範学校に入学した。5年間本科に在籍し、さらに1年間専攻科に進んだ。本科を出ると、教師になれるのだが、男子との給料の差が当時10円くらい違いがあった。しゃくだったので、1年間就職せずに、学校に残ったのだった。

最初の赴任

 1941年4月に、大宮市立三橋尋常高等小学校に就職しました。21歳の時だった。この年の12月8日には、太平洋戦争が始まる年だった。ハワイ真珠湾攻撃のあの戦争だ。高等科の女子組の1年生50人くらいの担任になった。この子供たちは、2年間担任した。その後に再び1年から2年まで、もう一度女子組を担任した。この中に、吉田寛子さんという子供は、やがて女子師範学校に進学し、私と同じ教職の道についた。戦後、北浦和小学校で同僚になった。寛子さんも、先になくなってしまった。この子供たちは、卒業して、かなりたった頃から、クラス会をしてくれるようになった。今から2年前の私が、88歳の時に、子供たちが80歳になり、最後のクラス会を開いてくれた。私は、長男の豊に連れられて、大宮の会場に行った。女子の何人かは、顔を見れば誰と名前が浮かんできた。
*母は、この頃、少し認知症が始まっていたが、会場に着くと、何人かの女の人の名 前をすぐに呼んで、私は、ビックリしてみていた。

結婚してから

 戦争中に、お見合い結婚で結ばれた。私が23歳の時だった。結婚して、2人の子供に恵まれた。長男豊は、1945年10月22日、次男宏は2年後の1947年9月20日に誕生した。その頃、2人の子どもを育てるために教師を退職した。今みたいに、保育園があるわけでなく、子どもを育てながらでは、勤めることは無理だった。
 終戦後、与野駅前の闇市に「天ぷら屋」を開いた。そのころは、油が手に入らなかった。そのため、天ぷらは、飛ぶように売れた。材料は、私の母の大和田の家に行って、安くもらってきた。天ぷら屋は、2年間くらい続いた。
 *この闇市時代のことは、うっすらと記憶に残っている。店の前で、三輪車に乗って 遊んでいたのも記憶にある。
 1948年1月に離婚した。今野幸正という人だった。榎本家の親戚の人にお金を借り、それが原因だった。私は、もう少し、続けようとも思っていたが、私の母(榎本志満)が許さなかった。母にとっては、我慢できなかったのだろう。
 離婚をして、実家に戻ってきたある日のことだ。これからどう生きていこうかと悩んでいたときに、とんでもないことを考えていた。しかし、そのことは、豊さんのひとことで、我に返ってやめた。つまり、まだ寝返りも出来ない弟の宏をおぶって、3才にもなっていない豊さんの手を引いて、暗い夜道を歩いていた。、今はなくなったかも知れない大宮と与野駅の間にある「欄干橋」(らんかんばし)の近くを歩いていた。その下は、鉄道が通っている。そのとき、「お母ちゃん、お星様がきれいだね。」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」。
*そんなことがあったのかと、その話をしみじみと聞いた。その後、2度としなかった。
*父親の思い出が1つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、小さい頃は、「お父ちゃんは、なくなった。」と、志満おばあちゃんから何度も言われていた。ところが、私の目の前に、現れたのであった。「ごめんください。」と言う声で、よちよち歩きの私が、玄関に歩いていくと、懐かしい父が立っていたのである。私は、うれしくて、「お父ちゃんだ。」と言って飛び跳ねた。こたつのあった部屋に戻り、母に伝えに行った。母が私をだっこして、父にだっこさせたのを覚えている。そのことを、家にいなかった志満おばあちゃんに話すと、「それは幽霊だよ。」と言って、相手にしてくれなかった。ずいぶん経った頃に、このときの話をすると、父は、離婚が決まってしまったので、最後の別れに私の顔を見に来たのだということを、教えてもらった。なお、父親は、私が、高校3年の頃、なくなった言うことを、父の兄の子どもの輝彦さんが、夜、伝えに来たのを覚えている。生きているときに、1度会ってみたかった気もする。
*なお、自分のうちには、父親がいないと言うことはわかっていたが、それで寂しい思いをしたことは一度もなかった。母を含めて、賑やかな7人家族であり、狭いながらも楽しい我が家だった。母の帰りが遅いときは、政子叔母とせつ子叔母の間に入って、寝ることも何度かあった。哲一郎叔父さんには、時々釣りに行ったり、野球をしたり色々遊び相手をしてくれた。33年前に、55歳の若さでなくなってしまった。

再び教職への道

 天ぷら屋を辞めたきっかけは、その店の前を通りかかった小学校時代の恩師である吉沢先生に会った。その先生に、「先生になりたかったら、いつでも声をかけていいよ。」と親切に言われた。*吉沢先生は、浦和の中学校の校長先生をしていた。その頃は、教員不足で、代用教員が多かった時代であった。やがて、北浦和小学校に就職できた。最初は、5年生を担任した。6年生まで担任し、卒業させた。そこで、10年間いて、4回ほど卒業生を出した。
 *吉沢先生は、やがて浦和市立高校の校歌を作詞している。浦和市立高校が、甲子園に出て、大活躍した頃に、吉沢先生作詞の校歌が流れた。 [#vd8c688b]
*この頃のことは、豊も時々北浦和小には、遊びに行ったり、プールに入れてもらったりして、懐かしい思い出になっている。なお、北浦和小で教えた子どもの何人かは、母の葬式に来てくれた。今年、75歳になっていた。

常盤小学校へ

 ここでも10年間いました。その後は、別所小学校に行き、最後は、自宅近くの仲町小学校でした。

8月17日の記録をもとに、49日の法要の日に、出席された方に配布したものである。この文章に、喪主の挨拶文と、母の死後の後始末2015年8月16日(日)の文章を入れてまとめた。  

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