子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月4日( 木) 自分の実践を振り返る

9月4日( 木) 自分の実践を振り返る

 10月22日の誕生日の日に、豊島作文の会の例会で、報告者になったいる。現役中にいつも向き合っていたのは、平和教育であった。そこで、そのきっかけは何であったのかということから書き始めた。

平和教育をするきっかけは、何であったのか

 7年間豊島区に勤めて、作文教育をする機会に恵まれた。それは、池袋第3小学校の教師集団の教育実践が輝いていた。その中でも、同学年の教師の一人に、日本作文の会の会員の方がおられ、その方の勧めもあって、作文教育のイロハを教わっていった。やがて、その方と一緒に、他の学校の何人か人が集まり、「国語教科書」の教材研究から出発した。やがてその会が、「作文の会」へと発展していった。その会によく顔を出す人に、百合出版に勤めていた村山淳(村山士郎の兄)さんの奥さんの村山文子さん(池袋第1小)
なども参加していた。あと何人か、名前は覚えていないが、必ず顔を出す人がいた。
 一枚文集の作り方、日記指導、班日記の良さ、赤ペンの入れ方など基本的なことを教えていただいた。
『原爆の子』(長田新作)岩波書店
忘れられない詩を書いた子供達   1970年 10月28日(日) 
原 爆     豊島区立池袋第三小学校  五年 女子
 原爆のけむりは、
 人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
 きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
 原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
 その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
 「本当に、悪かった。」
 と言っているんだ。
 でも、広島の人のくやしさは、
 今でも消えない。
 きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
 一人残された子どもは、
 きっと、戦争をとめるだろう。
 その時の気持ちがわかるなあ。
 きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
     1970年 10月31日発行 一枚文集 「太陽の子23号」より

 教師になって二年目の夏、隣のクラスの担任0教師に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。その大会に参加することによって、日本全国には、個性のある様々な教師がいることを知る。子供達に感動のある本を読み聞かせして、それを詩に表現している教師の実践に大変感動して、自分も実践してみようと試みた。
 その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、心洗われる思いで一気に読み終えた。その中の作品で、当時の子供達の書いた原爆投下後に書かれた作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。彼女は、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けたと言うことを、最初の家庭訪問の時に説明を受けた。そんな彼女であったが、作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて印刷した。
 ガリ版なんて言っても、知っている人はかなり少なくなってしまった。ロウ原紙と言って、その用紙のロウを鉄筆で削って字をカリカリと書いていくものである。それを印刷機にかけて刷っていくのである。その印刷機も、手刷りで一枚一枚刷っていくのである。輪転機と言って、回転式の印刷機も今や姿を消してしまったが、まだそんな機械もなかった頃である。コピー等という機械もなかった。
 子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、みんな喜んでじっくりみんなの文を鑑賞した。それをやると、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめることがある。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせてしまい、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもあるが、私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。その文集の一番最初のページには、担任の私のことを詩に書いてもらった。

 転勤しても、墨田区から月に1回の例会には、顔を出すようにした。異動した学校は、墨田区立小梅小学校だった。浅草の駅から降りて、言問橋や吾妻橋などを渡って、職場に着いた。言問橋の橋のところは、薄汚れていて、黒ずんだ色をしていた。しばらく経ってから聞くと、その橋の上で、東京大空襲の時にたくさんの人々が逃げてきて、その橋の上で、大勢の人々が隅田川へ飛び込んだりして亡くなった場所でもあった。橋の上が黒ずんでいるのは、亡くなった人々が折り重なって出来たものであると、知らされた。
 墨田区に転勤してからも、池袋第三小の豊島作文の会には参加した。そこに中川忠 子さんが入ってこられた。彼女が事務局長になり、私と山崎秀夫(仰高小)さんの3人だけで。3年間くらい続いた時期もあった。そこに、東田(長崎小)さんが西多摩に異動してから、寺木さんを連れて、例会に参加するようになった。その後、片桐さん(高南小)が新卒の鈴木由紀さんを連れて参加してくれるようになった。戦争体験者は、保護者の中にもいた。やがて「滝の会」が縁で、作文の会に参加してくれるようになったのが、今や事務局長として活躍してくれている、工藤哲さんである。  

お父さんから聞いたせんそうの話

    墨田区立小梅小学校 2年 池田 純子
 この間、おばあちゃんが来たときに、
「せんそうってとてもこわい、いやなことなんだよ。」
と言うことを聞き、わたしはお父さんに、
「せんそうのことについてお話しして。」
と言って、一週間ぐらい聞いていました。すると、お父さんは、
「せんそう、それはとてもたいへんなことだったんだよ。純子にはまだ少しむずかしいことだから、そのころ子どもだったお父さんが、今でも心にのこっていることを話してあげるよ。」
と言って、色々話してくれました。
 今から三十七年前、だいとうわせんそうというせんそうのおわりごろ、お父さんはみなとく赤さかにすんでいて、近くののぎ小学校に入学しました。そしてまもなくくうしゅうというとてもこわいことが、はげしくなってきました。くうしゅうとは、てきのひこうきが近くにやってきて、ばくだんとかしょういだんという花火のように明るい火の玉が、空からふってくることだそうです。だから、わたしにとっておじいちゃんのいなかに、お父さんは一人ぼっちで、そかいしたそうです。そかいとは、にぎやかな町だと、てきのひこうきにこうげきされやすいので、いなかのように山や川や田んぼが多く、あまり人のいないところにひっこすことです。お父さんは、いなかのおじさんやおばさんにとてもよくめんどうを見てもらったのですが、夜になるといなかになれていないお父さんは、自分のお父さんやお母さん、それにお父さんは四人兄弟のすっこなので、兄弟に会いたくて、一人でになみだが出てきてなきながらねたそうです。
 お父さんの小学校には、はねだせいきというせんそうのどうぐをつくる会社がひっこしてきていたので、高学年の人はあまりべんきょうしないで、その会社のお手つだいをさせられました。それにいえにあるてつや、くぎなどみんなひろってあつめてその学校にあるその会社にもちよったそうです。それは、ひこうきのげんりょうになるからです。
 またおべんとうばこも同じように、げんりょうになると言われて、ぜんぶのせいとが学校にもってきて、その会社にあげました。だからお父さんたちのおべんとうは、いつもおにぎりで、竹のかわにつつんでもっていきました。お父さんたちも、ときどき名前はわすれたけれども、じょうぶな長い草をつみに学校近くの土手へいかされました。それはへいたいさんのようふくや、さかなをとるあみなどになったそうです。いなかにもだんだんくうしゅうがはげしくなり、じゅぎょうちゅうにサイレンがなり、こうていのはんたいがわに作ってあるほらあなみたいなぼうくうごうという名前のところに、かくれることが多くなってきました。
 ある日のこと「ウー。」と言うサイレンがなって、お父さんのクラスは、だいとく先生という女の先生につれられて、ぼうくうごうにかくれたときのことです。その先生は、
「しずかにしてください。」
と言ってしょくいんしつのほうにかけていきました。いつもいっしょにいてくれるのに、お父さんたちは、
(へんだな。)
と思っていたら、まもなく赤ちゃんをだいてぼうくうごうの方にかけてくるだいとく先生が見えたとたん、
「ゴーッ。」
と言う音がしたと思ったら、
「ダッダッダダダダダダ。」
とこうていの土がはねるのが見えて、だいとく先生はたおれてしまいました。お父さんたちはとてもこわくて、クラスの人たちとだきあって、しばらくじっとしていました。少しすると、こうていの方がガヤガヤして、べつの先生が、
「もう出てきていいぞ。」
と、いったので出ていってみると、だいとく先生は、せなかに大きなあながあき、まわりはちだらけでしんでいました。赤ちゃんはそばで、
「ギャーギャー。」
とないていたそうです。赤ちゃんが学校にきていたのは、だいとく先生の家は神社で、その日おまつりで先生のおばあちゃんもおじいちゃんもいそがしかったので、学校につれてこなければならないのです。お父さんたちはこうていのすみで、長いことないていたそうです。今でも学校のうらにだいとく先生のおはかがあると言っていました。それはいばらぎけんのねもと小学校のできごとです。たすかった赤ちゃんは、その先生の男の子で、今はいなかで高校の先生をやっていると、お父さんは教えてくれました。それからたべものなんかも少なくおいしいものなどたべられない、とてもいやなときだったそうです。
「代用食といってお米のかわりに、おいもやうどんこで、いろいろなものを作ったんだよ。」 それでおいもも、今みたいにおいしいのではなく、ガソリンいもという大きいばかりであまくないビチャビチャしたのもだったと教えてくれました。
 そのせんそうが終わったときは、一年生の夏休みで、お父さんのお父さんやお母さんが、東京の家をやかれ、いなかにきてすぐのことだったそうです。
 まだたくさんのお話をしてやりたいけど、純子がもう少し大きくなったら、もっとくわしく話してあげると、お父さんは言っていました。わたしはお父さんの話をきいて、おや兄弟とはなれなくちゃならなくなったり、びょうきでもないのに死ななければならなくなったり、食べものがなかったり、いつもこわい思いをしなくてはならないせんそうなんていやです。みんななかよくくらせるように、わたしたちががんばらなくてはいけないと思いました。 1982年 三月作
     82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収

30年近くたって、読み返す

 今から30年近く前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、65才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた30年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。今回、自分の整理のためにまとめているのだが、この作者に手紙を差し上げる予定だ。

母から聞いたおじいちゃんの話

              墨田区立小梅小六年 中島 敬子
 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の11月18日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校2年生。おじいちゃんは、33才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って3年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、21才の時だった。おじいちゃんは、それから67才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
 「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。
                  1977年1月作

転勤して、5・6年を担任する

 「年配の人から昔の戦争中の出来事を聞いて書いてみよう。」と言うことで、クラスの全員に取り組ませた中からできあがった作品の1つである。この当時は、保護者の方々が、ほとんど戦争前に生まれた人が多かったので、このような貴重な話を掘り起こすことが出来た。中には、父親が兵隊でシンガポールなどに行き、戦争体験された親もいた。シベリア抑留のの作品は、授業参観で読み合ったのを覚えている。その時に、母親がちょうど後ろに見えていて、子どもたちの感想などを聞いているときに、時々横を向いておられたのを思い出す。おそらく、胸に迫る場面の時に、涙をこらえて聞いておられたのだろう。昭和18年7才ということは、今年74才になられておられる。この頃の親は、貴重な話をていねいに子どもに聞かせてくれたものだと、あらためて、この作品を読んで感じた。おじいちゃんが書かれた短歌は、その後どうなったのかは聞いていない。ぜひ、その後のことを、今度は、作者が取り寄せて考えてほしい。私の戦争体験の聞き書きは、この頃がスタートだった気がする。平和教育を退職まで続けてこられたのは、この子らの作品がバネになっている。この作者とは、卒業後高校生頃、、我が家の家族スキーに参加してくれたりした。その後、結婚式に招かれたりして、彼女の小学校時代の「生い立ちの記」の作品を読んだ。お父さんもまだお元気で、帰り際に、自分の胸についたいた生の生花を私の胸ポケットに入れてくださった。お父さんとは、あまりしゃべらなかったが、娘の嫁ぐ日に最大の感謝の気持ちだったのだろう。やがて、彼女は、現在3人のお子様の素敵なお母さんになっておられる。 

ここまで原稿をまとめて

 この原稿を載せてから、1週間くらい経ち、今日の朝 9月7日(木)の午前10時頃、非通知の電話がかかってきた。電話に出てみると、「中島敬子の娘の○○ですが、母の小学校時代の担任だった榎本先生ですか?」という問い合わせから始まった。「はい。」と返事をすると、「実は、母がくも膜下出血で昨日なくなりました。明日家族葬ですが、本日午前中まで遺体は、我が家におります。急で申し訳ないですが、お時間があれば、来ていただけませんか?」という電話だった、昨日透析を受けたので、今日は、1日時間があったので、「すぐ行きます。」といって電話を切った。墨田区の向島に住んでいたので、すぐに家を出て、自宅に向かった。彼女は、布団に横になっていた。その姿を見て、「敬子ちゃん早過ぎるよ。」と思わず声を出してしまった。敬子さん11才、私31才の時の子である。作文は、クラスでナンバーワンだった。あれから46年経ったので、彼女は、57才になっている。早すぎる旅立ちである。ご冥福を心より捧げる!
*続きは、その2へ

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